刀の盗難事件(in秀吉の大坂城)

刀の盗難事件からうかがえる秀吉と北政所の関係について
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アリノリ @a_ri_no_ri

天正18年(1590)6月4日、京都の東寺で二人の僧侶とその家来一人、合わせて三人が磔(はりつけ)となった。彼らの罪状は「盗み」である。罪は親族にも及び、主犯だと思われる順源房の兄弟全員が殺され、父らしき人物(超昇寺父ノ禅門)は腹を切った。

2021-05-15 10:35:49
アリノリ @a_ri_no_ri

順源房が「盗んだor盗ませた」のは、「羽柴秀吉の刀」である。 (*豊臣は姓氏なので家名の羽柴を使う。織豊政権という家名&姓氏という統一性のない使い方もそろそろ止めて欲しい)

2021-05-15 10:36:01
アリノリ @a_ri_no_ri

この盗みは三つの一次史料(多聞院日記,兼見卿記,秀吉の書状)で裏付けが取れる確固たる「事件」である。著名人が処されておらず、政治上の意味合いがないためか、ほとんど知られていない。一応、論文に関連史料が使われたことがあるが、思想面での引用であり、盗みまでは言及されなかった。

2021-05-15 10:36:14
アリノリ @a_ri_no_ri

当時の日記でも度々盗難事件を見かけるので、秀吉の大坂城で盗みがあってもおかしくはない。ただ、この刀の盗難事件では、上記の三人+順源院の家族以外にも大坂城内の人々が処刑されている。「刀が盗まれた」だけにしては、処罰された人数が多いのだ。

2021-05-15 10:36:26
アリノリ @a_ri_no_ri

次に大坂城内で盗みがあったときには、処刑などは確認できず、管理者が罰せられていないのがはっきり分かる。同じ「盗み」でも対応が違う。どうやら、盗まれた物の「価値」の差ではなく、盗まれたときの「状況」の差が処罰に影響しているようだ。

2021-05-15 10:36:37
アリノリ @a_ri_no_ri

では、この「刀の盗難事件」がどのようなものであったのか。既にこのブログ記事に「大坂城の太刀盗難事件」ari-eru.sblo.jp/article/159324…として書き出してあるので、読んでもらえば分かる。のだが、史料引用が長く他の盗難事件までは載せていない。以下に概要を記していく。

2021-05-15 10:37:03
アリノリ @a_ri_no_ri

先ず、秀吉の書状である。天正17年カと年次比定にやや不安がある書状ではあるが、日付はあり、宛名は片桐且元の息子片桐貞隆である。 秀吉は8月25日に「刀を盗んだ娘の父親」を指名手配する命令を出した。(以下、秀吉の書状,定引用は全て『豊臣秀吉文書集』から)

2021-05-15 10:37:15
アリノリ @a_ri_no_ri

この書状によれば、娘の父親は台所人の藤大夫で、娘は「御内=大坂城の奥か?」で働いていた。彼女は「御座敷」にあった秀吉の腰物(刀)と脇差を盗み、父親も「ちくてん=逃げて行方知れず」になった。娘は捕まったのか、探すように命令されているのは父親の藤大夫だけである。

2021-05-15 10:37:27
アリノリ @a_ri_no_ri

父親は「とし六十斗之者」と年齢が書かれ、頭を剃って姿を変えているかもしれない、との注意書きもある。捜索は徹底して行うように指示されたが、藤大夫が捕まったかどうかは不明である。蔵にあった刀ではなく、座敷に飾られていた大小の刀を盗むのは、なかなか大胆な犯行だと思う。

2021-05-15 10:37:43
アリノリ @a_ri_no_ri

年次を欠くこの書状が天正17年に比定されているのは、『多聞院日記・蓮成院日記』『兼見卿記』に、大坂城での刀の盗難が記されているからだろう。『蓮成院日記』の天正17年9月には以下の記事がある。(*多聞院と蓮成院はともに興福寺内の院)

2021-05-15 10:37:57
アリノリ @a_ri_no_ri

「関白殿御秘蔵之御腰物不見付、去廿五六日比於大坂邊數十人御成敗由也、御寵愛女房達ヲヤヽ・ヲヰト両人・御近習・御帳臺以下ハ出入無之聞、被召籠被成御糺間處、刀在所ハ無存知歟、誰々トモ出合、酒宴在之由白状間、不及實否、歴々衆御成敗ト云々、」

2021-05-15 10:38:09
アリノリ @a_ri_no_ri

大意「秀吉の刀が行方不明になり、25日26日に大坂で数十人が「成敗=処刑」された。秀吉が寵愛する女房のおやや、おいと、近習、御帳䑓(北政所?)以外に出入りがなかったので、捕えて問いただしたところ、刀のある場所は知らなかったらしい。→

2021-05-15 10:38:19
アリノリ @a_ri_no_ri

→誰とでも出会える酒宴を開いていたことを白状したので、本当かどうかには関係なく、身分の高い人たちも処刑されたとのことだ」 「誰々トモ出合、酒宴在之由」は今で言う乱交パーティーに近いものだろうか。本当かどうかは伝聞なので不明瞭だが、これなら盗みはしやすかったと思う。

2021-05-15 10:38:31
アリノリ @a_ri_no_ri

この「成敗」は「磔」であったのが、『多聞院日記』で分かる。以下に引用。 「関白殿先段大事之刀盗取終ニ不知云々、依之男女數多ハタ物ニ被上了、浅野弾正カヲイモ腹切、諸方以外震動、一段御機嫌悪シ様子、狂乱ノ始了(也カ)云々、頼朝ノ守刀一文字無類ノ重寶也ト、在リ所于今シレスト了(云々カ)、」

2021-05-15 10:38:46
アリノリ @a_ri_no_ri

大意:「秀吉の大事な刀が盗まれ、その行方はついに分からなかったようだ。そのため、多くの男女が磔にされた。浅野長吉の甥も腹を切り、あちこちで大きな動揺が起きた。(秀吉の)機嫌は非常に悪い様子で、狂い始めたかのようであるという。→

2021-05-15 10:39:00
アリノリ @a_ri_no_ri

→(盗まれたのは)頼朝の守刀一文字という他に類のない宝だという。どこにあるかは今も分からないらしい」 浅野長吉(長政)の甥と書かれているのが誰なのかは分からないが、「歴々衆」の一人がそうだという話が広まっていたのだろう。

2021-05-15 10:39:11
アリノリ @a_ri_no_ri

磔が8月25,26日にあり、先の書状は8月25日。書状が天正17年のものである可能性は非常に高い。藤大夫を徹底して探すように指示が出たのも、娘が既に処刑されているのに、「刀」が見つからなかったからだろう。『多聞院日記』は、この刀を「頼朝ノ守刀一文字無類ノ重寶」と記す。

2021-05-15 10:39:22
アリノリ @a_ri_no_ri

この刀に関連するっぽい由緒も『多聞院日記』にある。盗難の本題からズレるので、ここでは織田信長にも関係する刀とだけ記しておく。 (*気になる場合はブログに該当史料を載せてありますので、そちらを見てください)

2021-05-15 10:39:32
アリノリ @a_ri_no_ri

「狂乱」と記されているように、秀吉の執心は強かったらしい。刀の捜索は続いていて、翌年の天正18年5月30日に見つかる。それが、多聞院が属する「興福寺」内だったため、今度は情報がより精度の高い伝聞となる。次に、引用する。

2021-05-15 10:39:48
アリノリ @a_ri_no_ri

「於京都尊教院順源房搦取、子細ハ関白殿去年失タル刀尊方ニ在之由、則坊ヘ尊ノ状ニテ宥禅房ニ被渡ヨト申来、則取出渡之、宥禅房モ中坊ヨリカラメ、内衆モ同前ト云々、言語道断、寺門瑕瑾、沈思ノ事、如何可成行哉、」

2021-05-15 10:39:59
アリノリ @a_ri_no_ri

大意:「京都において尊教院順源房が捕えられた。理由は去年秀吉の所から盗まれた刀が、尊教院にあったからだ。直ぐに興福寺に尊教院の書状に(興福寺の)宥禅房に(太刀を)渡したとあったとの知らせが来た。直ぐに(太刀を)取り出して(知らせて来た使いに?)渡した。→

2021-05-15 10:40:10
アリノリ @a_ri_no_ri

→宥禅房も中坊(=奈良奉行)によって捕えられた。(宥禅房の)内衆も同じように捕えられたそうだ。言語道断のことである。興福寺に傷がついた。憂慮すべきことだ。成り行きはどうなるだろう」 娘が盗んだ刀は僧侶の手に渡っていた。

2021-05-15 10:40:19
アリノリ @a_ri_no_ri

藤大夫の娘は実行犯で、主犯は順源房だった、ということか? 娘が売り払った刀を順源房が買っただけ、の可能性もあるが、順源房は宥禅房に刀を送っていて、二人とも処刑されている。順源房が娘に盗ませて隠していた、と見るべきだろう。

2021-05-15 10:40:32
アリノリ @a_ri_no_ri

刀の発見により、秀吉の正室北政所(ねね)は吉田兼見に「神頼み」を依頼した。内容から刀の盗難事件に関する祈祷であるのが分かる。 『兼見卿記』の天正18年5月30日を引用する。

2021-05-15 10:40:43
アリノリ @a_ri_no_ri

「北政所殿東殿御書到来云、明日日神七人待之事、承訖、子細者、去年紛失之御腰物、今度被尋出之也、 関白御気色無御別義、政所殿御仕合可然様ニ御祈祷之儀也

2021-05-15 10:40:56