2021.05.16 青天を衝け(14)「栄一と運命の主君」放送後の町田明広先生による解説ツイート

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町田 明広 @machi82175302

「青天を衝け」14回目を拝見!渋沢が一橋家に仕官する経緯が、平岡を介して多少コミカルに描写され、かつ当時の政治動向も平岡がうまく紹介してくれました。また慶喜が参与諸侯との緊迫感を高め、薩摩藩と対決する序章が描かれました。渋沢が慶喜を追いかける場面、何度見ても胸熱ですね‼️#青天を衝け

2021-05-16 20:47:13
町田 明広 @machi82175302

大河ドラマで、政事総裁職の松平直克と老中の水野忠清が登場。しかもセリフあり。個人的には感激した。ちなみに、水野の老中での在任期間の長さは尋常でない。文久2年から慶応2年まで、4年半ほど。この激動期に罷免されなかった彼の政治的動向、政治力は検討に値する。#青天を衝け

2021-05-16 20:47:54
町田 明広 @machi82175302

元治元年(1864)2月初旬、渋沢栄一は尾高長七郎からの書簡を受け取った。何とその手紙は、小伝馬町牢屋から出されたものであり、中村三平・福田義助とともに捕縛されたことを報じ、悪いことに幕政を批判し、攘夷実行の計画を記した渋沢の書簡を懐中にしたままであったことを知らせてきた。#青天を衝け

2021-05-16 20:48:31
町田 明広 @machi82175302

尾高長七郎は、幕府は横浜鎖港のために瓦解することは間違いないので、我々が国家のために尽くせるのはその時である。それまでは、京都に居るようにと警戒を促したため、渋沢らは苦心焦慮して善後策を検討した。#青天を衝け

2021-05-16 20:48:58
町田 明広 @machi82175302

元治元年2月8日、渋沢らは平岡円四郎が一橋家へ推挙してくれたため、仕官することが叶った。平岡はそもそも、渋沢らを一橋家に仕官させたいという野心があったが、渋沢の窮地を救う体を取って、その目的を果たしたのだ。#青天を衝け

2021-05-16 20:49:26
町田 明広 @machi82175302

一橋家というのは徳川三卿の一つであり、8代将軍吉宗の4男宗尹を祖とする。寛保元年(1741)に江戸城一橋門内に屋敷を与えられ、この事実が一橋徳川の名称の由来となった。2代治済の長男は将軍家を継いで、11代将軍家斉となり、9代目には渋沢と関わる水戸徳川斉昭の子慶喜を迎えた。#青天を衝け

2021-05-16 20:50:14
町田 明広 @machi82175302

その慶喜は、慶應2年(1866)に15代将軍となる。一橋家の領知は10万石で、西日本では8万石(おおよそ摂州に1万5000石、泉州に8000石、播州に2万石、備中に3万7000石)、関東では意外にも2万石に過ぎない。#青天を衝け

2021-05-16 20:50:36
町田 明広 @machi82175302

渋沢は一橋家に仕官するにあたり、正式な仕官前に慶喜への拝謁を希望し、「是までの先例にあるかないか知れませぬが、一度君公に拝謁を仰付けられまして、仮令丁寧な御意がなくとも、一言直に申上て後に、御召抱へを願ひたい」(「雨夜譚」)と平岡に依頼した。#青天を衝け

2021-05-16 20:51:20
町田 明広 @machi82175302

それに対し、平岡円四郎は「其れは例がないから六かしい(難しい)」、つまり前例がないと渋沢は拒否された。至極当たり前の受け答えであり、そもそも、そんな無茶なことを口にする渋沢栄一の方こそ、どうかしているのである。#青天を衝け

2021-05-16 20:52:07
町田 明広 @machi82175302

平岡は「そんなに理窟をいつたとて、左様は往かぬ」と拒絶すると、「それが往かぬと仰しやる日には、私共は此の儘にて死ぬとも生るとも、此の御奉公は御免を蒙るより外に仕方がありませぬ」と強情だった。慶喜以上かも知れない。#青天を衝け

2021-05-16 20:54:01
町田 明広 @machi82175302

渋沢は仕官辞退を言い張ったため、とうとう平岡が折れて、数日後、「ドウカ拝謁の工夫が附たやうだ、併し見ず知らずの者に、拝謁を許す訳にはゆかぬから一度遠見なりとも、彼れが何某で御座ると、御見掛けになる様な工夫をせむければならぬ」と、拝謁の方法を渋沢栄一に話し始めた。#青天を衝け

2021-05-16 20:54:29
町田 明広 @machi82175302

平岡は「元々家来でないから、好い都合がないが、両三日中に松ヶ崎へ御乗切りがあるから、其途中へ出て居て、御見掛けになる工夫をするがよい、けれども夫れには乗馬だから、駈んければならぬといふことであつた」と、馬で遠出をする慶喜を待ち伏せして拝謁するという無茶なプランだった。#青天を衝け

2021-05-16 20:55:23
町田 明広 @machi82175302

渋沢は大いに困惑した。というのは、「自分の身体は其頃から肥満して居り、殊に脊も低いから、駈あるく事は極めて難義であつた」からである。しかし、「一橋公の御馬が見えるとすぐに、下加茂辺から山鼻まで、行程十町余りの処を一生懸命でひたばしりに駈けて御供をした」。#青天を衝け

2021-05-16 20:56:25
町田 明広 @machi82175302

渋沢は、肥満気味の体にもかかわらず、頑張ったと拝謁時の苦労を語っているのだが、この時、実際に言葉を交わしたかどうかは分からない。しかし、事実上の拝謁を果たしたのだ。栄一、スーパー頑張った。#青天を衝け

2021-05-16 20:56:54
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は喜作とともに、奥口番・御用談所下役出役(俸禄4石2人扶持、在京月手当金4両1分)で出仕、4月中旬に御徒士に昇進し、この頃、初めて慶喜に内御目見を許され、意見を述べている。#青天を衝け

2021-05-16 20:57:57
町田 明広 @machi82175302

渋沢は「幕府の命運は危うき状態になり、徳川宗家(将軍家)のためを思われるのであれば、一橋家の勢力を拡大して宗家を擁護すべきであり、そのためには「広く天下有為の士を招致すること第一の急務なり」(渋沢栄一伝稿本)と、人材の登用を勧説した。#青天を衝け

2021-05-16 20:58:17
町田 明広 @machi82175302

いよいよ尊王志士から一橋家臣、武士となった渋沢栄一の新たな人生が始まったのだ。それにしても、短期間での劇的な人生の大転換である。いよいよ次週から、西郷隆盛など、薩摩藩絡みのストーリーが始まる。期待したい。#青天を衝け

2021-05-16 20:58:59
町田 明広 @machi82175302

この間の中央政局の動向について、薩摩藩・島津久光の視点から振り返っておこう。八月十八日政変後、いよいよ久光は、具体的な国政参画を期して、文久3年(1863)10月3日に上京した。同月19日に至り、久光は松平春嶽を東本願寺学林の旅宿に訪ね、今後の周旋方針を協議した。#青天を衝け

2021-05-16 21:01:41
町田 明広 @machi82175302

対外方針については、島津久光は生麦事件から始まる薩摩藩と英国との緊張関係もあって、幕府の横浜鎖港談判については、「皇国の御為危き殆たいの至りなり」(『続再夢紀事』)と危惧の念を示した。つまり、横浜鎖港には反対の立場を明確に松平春嶽に示した。#青天を衝け

2021-05-16 21:02:04
町田 明広 @machi82175302

島津久光は続けて、談判に服さず、列強が大挙して襲来したら幕府はどのような処置をとるのか、その時になって談判以前に戻そうとしても無理である。横浜鎖港に固執することは、内憂外患が一気に噴出して、大混乱に陥ると警鐘を鳴らす。#青天を衝け

2021-05-16 21:02:56
町田 明広 @machi82175302

ここは一橋慶喜をはじめ、速やかに未来攘夷派の諸侯が上京し、「官武の御一和ハ申す迄もなく開鎖の可否をも議定せらるゝ事」と公武融和はもちろんであるが、開国すべきか鎖国すべきかを議するべきであると述べ、国是を通商条約の容認に導くことを提唱した。#青天を衝け

2021-05-16 21:03:25
町田 明広 @machi82175302

島津久光の松平春嶽に対するこうした言説を見る限り、これまでの、通商条約を容認するか否かの態度を鮮明にしない、どこか遠慮がちな対応から一歩踏み出したことがうかがえる。八月十八日政変の成功も相まって、通商条約の勅許を意識した態度への転換である。#青天を衝け

2021-05-16 21:03:48
町田 明広 @machi82175302

島津久光は、西国雄藩である薩摩藩の事実上の国主であり、近衛家との濃密な関係が存在していたことから、孝明天皇の信任も厚かった。しかも、八月十八日政変の成功に深くかかわったのが薩摩藩であった。こうしたことを背景にした、久光の自信みなぎる春嶽への意見の開陳である。#青天を衝け

2021-05-16 21:05:12
町田 明広 @machi82175302

文久3年11月15日、久光は近衛家において孝明天皇の宸翰を拝戴した。久光に対する孝明天皇の信頼は、前年の文久2年(1862)4月の浪士を鎮撫した寺田屋事件から継続していたが、その表れである。孝明天皇の真のより所は将軍ではなく、無位無官に過ぎない久光であったのだ。#青天を衝け

2021-05-16 21:07:39
町田 明広 @machi82175302

孝明天皇は朝廷内でも破約攘夷派グループに押されており、中川宮しか頼りになる廷臣はおらず、孤独感は相当なものであった。孝明天皇の依頼は武臣では久光、廷臣では中川宮に集中しており、この状況は文久3年末まで続くことになる。#青天を衝け

2021-05-16 21:07:53