佐倉安斎トラップ

「違くない?」に端を発した、「A・非A」「違い・類似」噺の入り口。あとで考えるためのメモとして。
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佐倉統 @sakura_osamu

最近、「違って(い)て」を「ちがくて」と言うのをよく耳にする。娘もそう言っている。いつごろから、なぜ流行りだしたんだろうか。「違く」の「く」は、なんなんだ?

2011-08-06 15:27:54
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

たぶん「違い」という形容詞が暗に発生したんでしょう。大きい、高い、遠い、違い、みたいな。RT @sakura_osamu: 最近、「違って(い)て」を「ちがくて」と言うのをよく耳にする。娘もそう言っている。いつごろから、なぜ流行りだしたんだろうか。「違く」の「く」は、なんなんだ?

2011-08-06 15:35:01
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

「それ違くない?」「もうちょっと違ければいい」という用法は形容詞。これを延長すると「今日は天気が違い」とか「違めに推移している」とか「気が違い人」という用法も可能なはずだけど、これは聞きませんねw > @sakura_osamu

2011-08-06 15:43:15
佐倉統 @sakura_osamu

なーるほど(ポン!)そういえば「違かかった」というのも聞きますね。 RT: @ToshihiroANZAI: たぶん「違い」という形容詞が暗に発生したんでしょう。大きい、高い、遠い、違い、みたいな。

2011-08-06 15:46:40
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

「違い」は認知的に離散か連続かって問題ですね。RT @sakura_osamu: なーるほど(ポン!)そういえば「違かかった」というのも聞きますね。 RT: @ToshihiroANZAI: たぶん「違い」という形容詞が暗に発生したんでしょう。大きい、高い、遠い、違い、みたいな。

2011-08-06 15:53:02
佐倉統 @sakura_osamu

それは離散的だから「違う」と認識されるのでは? 連続していたら、「違くない」。 RT: @ToshihiroANZAI: 「違い」は認知的に離散か連続かって問題ですね。

2011-08-06 16:00:35
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

「違い」が離散的なのは「同じ」が対置されるとき。「同じ」が外れると「違さ?」の程度が連続的になる、ということでは。RT @sakura_osamu: それは離散的だから「違う」と認識されるのでは? 連続していたら、「違くない」。

2011-08-06 16:05:20
佐倉統 @sakura_osamu

なるほど。ぼくは、「AとBの違い」を考えていました。これはAとBを離散的に認識しているから「違う」存在と認識するのだと。 RT: @ToshihiroANZAI: 「違い」が離散的なのは「同じ」が対置されるとき。「同じ」が外れると「違さ?」の程度が連続的になる、ということでは。

2011-08-06 16:16:25
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

これは思いのほか根本的な問題ですね。田中譲さんと、イェルムスレウの話だったか、同じ問題を話した記憶がありますが、よく覚えてないw。RT @sakura_osamu: ぼくは、「AとBの違い」を考えていました。これはAとBを離散的に認識しているから「違う」存在と認識するのだと。

2011-08-06 16:21:55
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

「長い」「短い」を分離する明確な敷居はなく、「長さ」という連続量であらわすことができる。同一である「同じ」と対にならない「違う」の用法は、「違う」と「似ている」が連続し、類似の程度をあらわす数直線上に並ぶ。ということか。 @sakura_osamu

2011-08-06 16:22:36
佐倉統 @sakura_osamu

「違い度」の連続性/離散性ということでしょうか。 これはメタレベルの話だなあ。数学的?RT: @ToshihiroANZAI: 同一である「同じ」と対にならない「違う」の用法は、「違う」と「似ている」が連続し、類似の程度をあらわす数直線上に並ぶ。ということか。

2011-08-06 16:27:27
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

「How old are you」とはいうが「How young are you」とは言わない。Aと非Aが二元的に対置するのではなく、「old」は「old+young」を、つまり「A」と「A+非A」が向き合う世界観が自然言語の底流にある。RT @sakura_osamu:違い度

2011-08-06 16:28:24
nishinojunji にしの@ ∴ @nishinojunji

@ToshihiroANZAI @sakura_osamu 排中律への抵抗こそ、ファジィ理論なんですが流行ってないですね。

2011-08-06 16:30:46
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

科学は「A:非A」の世界だけれど、ファジーもアナロジーも「A:A+非A」の世界。疑似科学もそうだけれど、ミームとかアフォーダンスとかオートポイエーシスとか、どれも「A:A+非A」だからこそ生まれた発想じゃないかと。@nishinojunji @sakura_osamu

2011-08-06 16:34:39
佐倉統 @sakura_osamu

これは年齢を重ねることに焦点を当てているからでは? お風呂のお湯なら「熱い?」とたずね、飲料の冷水は「冷たい?」と聞く。「A」と「非A」のどちらがその文脈で重要か、の問題では。 RT: @ToshihiroANZAI: 「How old are you」とはいうが

2011-08-06 16:39:20
Shingo Sakai @egginthesky

線(境界)は空間的に存在しないということですかね。QT @ToshihiroANZAI 「A:A+非A」

2011-08-06 16:42:52
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

まさに文脈に依存する知識は科学にならない、という問題だと思います。「同じ」か「違う」かは、文脈から自由に反証可能だから科学になる。アートは、反証不可能な「違さ」を扱う(続く)RT @sakura_osamu:「A」と「非A」のどちらがその文脈で重要か、の問題では。

2011-08-06 16:52:37
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

(続き)しかし科学的な発想の根源は、やはり「A:A+非A」のアナロジーだと思うんですよ。これは「ミーム学」のようなアートに近い発想から生まれた学問の行く末にも関係する問題だと思うのですが、いかがでしょう。 @sakura_osamu

2011-08-06 16:54:20
佐倉統 @sakura_osamu

半分同意。「A:A+非A」なのか、「 A+非A」だけなのか、後者のような気もする。宿題。RT: @ToshihiroANZAI: ミームとかアフォーダンスとかオートポイエーシスとか、どれも「A:A+非A」だからこそ生まれた@nishinojunji @sakura_osamu

2011-08-06 16:54:21
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

ひょんなことから面白いテーマをひろいました。僕も宿題。RT @sakura_osamu: 半分同意。「A:A+非A」なのか、「 A+非A」だけなのか、後者のような気もする。宿題。

2011-08-06 17:00:19
安斎利洋 @ToshihiroANZAI

線の動きかた、動かしかたが問題だということですね。RT @egginthesky: 線(境界)は空間的に存在しないということですかね。QT @ToshihiroANZAI 「A:A+非A」

2011-08-06 17:02:06
tetsuo jai takahashi @com4jai

A:A+Bということは?非Aと思っているものは本当にAに相対的なのかなー。 “@ToshihiroANZAI: (続き)しかし科学的な発想の根源は、やはり「A:A+非A」のアナロジーだと思うんですよ。@sakura_osamu

2011-08-06 17:23:57
下西 風澄 @kazeto

@ToshihiroANZAI 河本さんが、生体は多くの細菌とカップリングしていて、「非自己の補集合が自己になるわけではない」と言っています。動き続けるものにとっての肯定/否定は、差異の中に無限の差異を含むような、なだらかさと呼びうるようなものも含まれる気がします。

2011-08-06 17:36:11
下西 風澄 @kazeto

神経認知の最大の特徴の一つが、感覚刺激の大半を無視していることである。そうでなければ記憶はただちにパンクし、そのつど膨大な神経系の作動が起きてしまう。(中略)無視とは、積極的で能動的な働きである。(河本英夫)

2011-08-06 17:37:58
下西 風澄 @kazeto

河本さんは「無視は能動的」と。ベルクソンは無は存在に先立つ外部ではなく、「記憶」や「予見」によって作られるものと(「自然界に絶対の空虚はない」「空虚の表象は充実」)。時間のあるところに「無い」はなく、変化(もしくは変化率)だけがある。

2011-08-06 17:48:19