2021.05.30 青天を衝け(16)「恩人暗殺」放送前後の桐野作人先生による解説ツイート

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桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマの進行より少し遡るが、将軍後見職となった一橋慶喜が文久3年(1863)正月に上洛したものの、公家衆や藩士の攘夷勢力からしきりに攘夷勅旨の奉承を執拗に迫られ、とうとう2月14日に攘夷期限を4月中旬とすると、国事掛の三条実美らに回答してしまった。署名したのは4人である。 #青天を衝け

2021-05-30 11:26:31
桐野作人 @kirinosakujin

その4名は慶喜のほか、松平春嶽、松平容保までは幕府の要路だからわかる。でも、もう一人が松平容堂すなわち山内容堂なのである。この時期、容堂は上京しているが、どういう立場、資格で署名したのか。まだ朝議参豫には任命されていないはず。たまたま在京していただけではないと思うが。#青天を衝け

2021-05-30 11:26:32
桐野作人 @kirinosakujin

吉田六左衛門宅の母屋写真あるが、版権の関係で載せられない。五代様と寺島を半年間匿ったのは分家の吉田市右衛門。共に集福寺に墓所あり。六左衛門(六三郎)の顕彰碑には五代様と寺島の名前が刻まれていた。偶然ながら、この地は渋沢栄一の血洗島にも比較的近い。#五代友厚 #青天を衝け pic.twitter.com/yxwcRCW0Sn

2021-05-30 17:56:19
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桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。平岡円四郎が刺客に襲撃されて最期を遂げました。平岡は暗殺直前、急激な出世を遂げています。小普請組支配、勘定評定所留役当分助という閑職から一橋家の用人へと栄転。文久4年(1864)2月には側用人兼番頭、5月15日には家老竝(家老並)となります。#青天を衝け

2021-05-30 21:35:48
桐野作人 @kirinosakujin

旗本としての家格も新番頭格となり、暗殺の半月前の6月2日、諸大夫(しょだいぶ)に列し、近江守と名乗ります。諸大夫成は従五位下に叙せられるとともに、いわば公儀の一員です。慶喜の信任厚く、その推挙もあったと思われます。事件は池田屋事件の10日ほどのちの6月16日夜に勃発。#青天を衝け

2021-05-30 21:35:49
桐野作人 @kirinosakujin

平岡と川村恵十郎は一橋家家老の渡辺甲斐守孝綱宅を訪れた帰り、水戸藩士の林忠五郎と江幡貞七郎に襲撃された。2人は川村に斬られ、川村も顔面を斬られたのはドラマの通り。平岡の諱は方中。「徳川慶喜公伝」では「ケタチ」と読むという。写真は暗殺現場あたりの京都西町奉行石碑。#青天を衝け pic.twitter.com/s1mU9bFLqc

2021-05-30 21:35:53
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桐野作人 @kirinosakujin

一橋家家老の渡辺孝綱はドラマには登場しませんでしたが、知行高3100石の上級旗本。安政6年(1859)9月に外国奉行をつとめ、11月には辞職してます。安政の大獄の影響でしょうか。文久2年(1862)11月には番方のひとつ、書院番頭に昇進したエリート旗本です。#青天を衝け

2021-05-30 21:35:54
桐野作人 @kirinosakujin

文久2年(1862)12月、慶喜が上京するときに供奉、翌3年8月には大目付まで出世し、元治元年(1864)5月に一橋家家老に就任しています。新任だったせいか、平岡との相談もいろいろあったと思われ、下位の平岡のほうから渡辺宅を訪れたか。慶喜の実家の水戸藩士がなぜ平岡を襲撃したのか。#青天を衝け

2021-05-30 21:35:54
桐野作人 @kirinosakujin

水戸藩士が平岡を襲撃した理由について、館林藩士で『名将言行録』の著者でも知られる岡谷繁実は『史談会速記録』で、平岡の出世が猜疑されるともに「その頃まで外見では慶喜公の開国論者なることを知らず、攘夷論者と信じており、公が政局に関わっても、攘夷が実行されないのを見て、#青天を衝け

2021-05-30 21:35:55
桐野作人 @kirinosakujin

望みを失い、その謀臣である円四郎を誹謗し、円四郎が開国論で慶喜を誘惑する者、獅子身中の虫で奸物だと罵り、攘夷党のために除くべきだと意を決した」とする。もっとも、前年夏以降、栄一や喜作も水戸藩士の不穏な動向を摑んでいたとも書いている。これは数回前にドラマで再現された。#青天を衝け

2021-05-30 21:35:55
桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河ドラマ「青天を衝け」で、もう登場しないかと思われた岡部藩の捕り方が尾高惇忠と弟の平九郎が召し捕られて連行されました。その岡部藩の陣屋跡が史跡になっています。有名な高島秋帆が収容されたので、秋帆の案内板も立ち、小さな駐車場も出来ていました。#青天を衝け pic.twitter.com/7TfD3VrIPE

2021-05-30 21:46:51
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桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。非業の最期を遂げる前、平岡円四郎が慶喜に「殿は東照大権現の再来」と真情を吐露していた。円四郎がそう言ったという史料があるか知らないが、慶喜が徳川家康に喩えられていたのはたしか。そういえば、今日は北大路家康は登場しなかったような。#青天を衝け

2021-05-30 22:19:16
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜を家康にたとえたのは木戸孝允。ドラマから3年ほどのち。土佐藩士の土方久元『回天実記』慶応3年3月21日条に「一橋の胆略決して侮るべからず、若し今にして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るが如し」と述べる。木戸の慶喜への非常な警戒心。#青天を衝け

2021-05-30 22:19:16