2021.07.04 青天を衝け(21)「篤太夫、遠き道へ」放送後の桐野作人先生による解説ツイート

2
桐野作人 @kirinosakujin

昨日の大河ドラマ「青天を衝け」 慶喜の宗家相続と征夷大将軍宣下。ドラマでも最初慶喜が宗家を相続したものの、将軍職は一時辞退したことが描かれたが、実際は慶喜の辞退で幕府内は混乱した。慶喜が将軍職を受けるまで4カ月余かかったため「将軍空位時代」とか「将軍空位期」と呼ばれる。#青天を衝け

2021-07-05 12:49:34
桐野作人 @kirinosakujin

この4か月間の空白について、たとえば、井上勲氏の「将軍空位時代の政治史」という論文もあるほどである。江戸開幕以来、徳川宗家の家督と征夷大将軍職は不可分一体のはずだったが、慶喜はそれを分離し、宗家相続だけ受けた。その真意はどこにあったのかというわけである。#青天を衝け

2021-07-05 12:49:35
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜と親しくよき理解者だった松平春嶽もさすがに激怒した。慶喜が将軍でもないのに「上様」と称したのに不快感を示し、もはや将軍不在で幕府もないのだから天下の大政を朝廷に返上すべきだと慶喜に7カ条の意見書を突きつけたほどだった。#青天を衝け

2021-07-05 12:49:35
桐野作人 @kirinosakujin

春嶽の7カ条には、徳川宗家は諸侯に命令するのを止め、尾張・紀州両藩と同等になるべきだ/兵庫開港・外国交際・諸侯統轄・金銀貨幣その他、天下の大政一切を朝廷へ返上すべき/将軍職は天下の衆議で決めることなどがあり、春嶽は尾張の徳川慶勝を将軍候補に擬したともいわれる。#青天を衝け

2021-07-05 12:49:36
桐野作人 @kirinosakujin

春嶽は慶喜の心中について「彼卿(慶喜)は諺にいう子ジアゲ(ねじあげ)の酒呑みで、十分ねじあげたうえで、(将軍職を)お受けになるだろう」と述べている。ねじあげとは、慶喜の将軍就任には幕府内外に異論や反対が多いだろうから、剛情にごねたり、じらしたりして粘ることか。#青天を衝け

2021-07-05 12:49:36
桐野作人 @kirinosakujin

みなが仕方なく支持せざるを得なくなるのを待ち、満を持して将軍に就任するという作戦を指すのだろう。それだけでなく、兵庫開港など外交問題も山積している折柄、朝廷や幕閣、諸侯など各層各方面の支持を調達することによって、外交、内政とも実権ある将軍をめざそうとしたのだろう。#青天を衝け

2021-07-05 12:49:36
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜の将軍就任にはもう一つのハードルがあった。それは前将軍家茂の遺言である。家茂は江戸を進発するとき、天璋院に「万が一のときは田安亀之助を後継に」と言い残したという。しかし、亀之助(のち16代家達)は当時わずか4歳だったから、多事多難のなか将軍職はとても務まらない。#青天を衝け

2021-07-05 12:49:37
桐野作人 @kirinosakujin

一方、御台所だった和宮は「幼年の亀之助では不安である。確かな後見人なくてはかなわない。然るべき人物はいないか」と表明した。暗に慶喜を後見にという意見だった。在京老中の板倉勝静、稲葉正邦らは慶喜を将軍とし、亀之助をその継嗣にするという方針を天璋院や和宮に提示した。#青天を衝け

2021-07-05 12:49:37
桐野作人 @kirinosakujin

昨日の大河ドラマ「青天を衝け」慶喜続き。慶喜は徳川宗家を相続したとき、「我が意の如く弊政を改革して差し支えなからんには、相続するのみは承諾せん」と述べていた。その後、将軍になるとすぐさま政治・軍事改革を開始する。将軍でなければ不可能だったことに直ちに着手したのである。#青天を衝け

2021-07-05 13:15:40
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜の改革は「慶応の軍制改革」と呼ばれ、幕府軍の全面的な洋式化だった。慶応2年10月、旗本の中核である奥詰槍術方や講武所詰めを遊撃隊に編制し、従来の砲兵を撒兵隊に改組、天領から壮丁を徴発して砲隊に編制、講武所も陸軍所と改称した。#青天を衝け

2021-07-05 13:15:41
桐野作人 @kirinosakujin

これらの改革により、歩兵7個連隊、伝習隊2大隊、御料兵1隊、奥詰銃隊3隊、撒兵隊4隊、騎兵1隊、大砲隊1隊の新式軍隊が誕生したのである。余談ながら慶応3年の新選組の幕臣化、銃砲隊へ改組もそうした幕府の軍事改革の一環だったといわれる。慶喜はこうした改革をわずか1年弱で断行した。#青天を衝け

2021-07-05 13:15:41
桐野作人 @kirinosakujin

昨日の大河ドラマ「青天を衝け」孝明天皇の死去。 慶喜の将軍就任からほどなく、孝明天皇が死去する。死因は悪性の疱瘡だというのが定説。しかし、岩倉具視が暗殺したとか、陰謀論がまだ唱えられたりする。ドラマでは陰謀論にとらわれず、岩倉の悲嘆をよく描いていた。#青天を衝け

2021-07-05 15:50:46
桐野作人 @kirinosakujin

岩倉は洛北岩倉村に逼塞しているし、妹の堀川紀子を使嗾したという陰謀論もあるが、彼女は攘夷派から四奸二嬪として朝廷から追放され手が出せるはずがない。岩倉もまた天皇の死去を聞いて「仰天驚愕、言う所を知らず、血泣鳴号無量の極、臣(岩倉)一身においても吾が事終われり」と悲嘆。#青天を衝け

2021-07-05 15:50:47
桐野作人 @kirinosakujin

疱瘡は良性と悪性があり、良性はほどなく回復するが、悪性はほとんど死に至る。天皇は当初良性に見えたが、途中から急激に悪化した。悪性の一種、出血性膿疱性疱瘡は数日後に病状が急激に悪化し、痘疱から出血、内臓からも出血するという。天皇の症状はこれに該当するという見立てが有力。#青天を衝け

2021-07-05 15:50:47
桐野作人 @kirinosakujin

孝明天皇の死因については、薩摩藩もつかんでいた。在京の家老、小松帯刀と町田内膳が国許の同僚に宛てた書簡には「まず御順痘(軽症の疱瘡)と見えて症状も軽かったが、じつは初発から御難瘡(悪性の疱瘡)の兆候もあり、ついにご養生も叶わなかった」と知らせている。かなり正確。#青天を衝け

2021-07-05 15:50:47