松村圭一郎『うしろめたさの人類学』読書メモ

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かんた @0sak1_m1d0r1

いつものスーパーでは、店員はこそこそと笑い、客はおっちゃんの存在に気づかないふりをして目をそらす。そこでのおっちゃんは、いつも「変な人」だった。 でも、その「おかしさ」をつくりだしているのは、

2021-08-10 17:39:28
かんた @0sak1_m1d0r1

おっちゃん自身ではなく、周りにいるぼくらのほうかもしれない。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』10)

2021-08-10 17:39:42
かんた @0sak1_m1d0r1

構築主義には、視点を転換する力がある。でも、その核心は「批判」そのものにはない。もっと別のところに可能性があるのではないか。いまここにある現象やモノがなにかに構築されている。だとしたら、

2021-08-10 17:53:37
かんた @0sak1_m1d0r1

ぼくらはそれをもう一度、いまとは違う別の姿につくりかえることができる。そこに希望が芽生える。その希望が「構築人類学」の鍵となる。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』17)

2021-08-10 17:54:44
かんた @0sak1_m1d0r1

贈り物というのは、与えなくてはならないものであり、受け取らなくてはならないものであり、しかもそうでありながら、もらうと危険なものなのである。それというのも、

2021-08-10 18:01:41
かんた @0sak1_m1d0r1

与えられる物それ自体が双方向的なつながりをつくりだすからであり、このつながりは取り消すことができないからである。 (モース『贈与論』369) 「与えなくてはならないものであり」のところがよくわからん。普通に、なにか契約や交換するためにはなにかを「与えなくてはならない」とかそういう話?

2021-08-10 18:05:48
かんた @0sak1_m1d0r1

商品交換と贈与を区別しているものはなにか? フランスの社会学者ピエール・ブルデュは、その区別をつくりだしているのは、モノのやりとりのあいだにさしはさまれた「時間」だと指摘した。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』24) なるほど

2021-08-10 18:14:21
かんた @0sak1_m1d0r1

経済の「交換」という脱感情化された領域があってはじめて、「贈与」に込められた感情を際立たせることができる。だからバレンタインのチョコで思いを伝えるためには、「商品」とは異なる「贈り物」にすることが不可欠なのだ。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』29)

2021-08-10 18:32:32
かんた @0sak1_m1d0r1

商品交換のモードが共感を抑圧し、面倒な贈与と対価のない不完全な交換を回避する便法となる。ぼくらはその「きまり」に従っただけでなにも悪くない。そう自分を納得させている。 あるいは「与えることは彼らのためにならない」と言うかもしれない。これだって

2021-08-10 18:46:41
かんた @0sak1_m1d0r1

同じ正当化にすぎない。ためになるかかどうかは、そもそも与える側か決められるものではないからだ。いろんな理屈をつけて最初に生じたはずの「与えずにはいられない」という共感を抑圧している。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』37)

2021-08-10 18:48:35
かんた @0sak1_m1d0r1

人類学は、この自分の居場所と調査地とを往復するなかで生じる「ずれ」や「違和感」を手がかりに思考を進める。それは、ぼくらがあたりまえに過ごしてきた現実が、ある特殊なありかたで構築されている可能性に気づかせてくれる。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』52)

2021-08-15 02:12:47
かんた @0sak1_m1d0r1

自分が相手にどういう行為を投げかけるのか。相手がどんな行為を投げ返してくるのか。こうしてふたりの関係がある「かたち」をもっていく。 「親友」や「恋人」、「家族」といったカテゴリーは、その一時的な「かたち」のあとから説明を加えるためにもち出されているにすぎない。だから、

2021-08-15 16:11:46
かんた @0sak1_m1d0r1

「関係」はもろいし、移ろいやすい。でもだからこそ、「関係」は互いの好意によって変えることができる。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』77)

2021-08-15 16:13:08
かんた @0sak1_m1d0r1

ぼくらが何者であるかは他者との関係のなかで決まる。身近な他者が何者なのかも、あなたがなにをどのように相手に投げかけるかによって変わる。あなたの行為によって相手は何者かになり、

2021-08-15 16:33:31
かんた @0sak1_m1d0r1

相手の呼びかけや眼差しによって、あなたが何者であることを強いられたり、何者かになれたりする。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』83)

2021-08-15 16:33:57
かんた @0sak1_m1d0r1

エチオピアでは、国や地方の公務員の役職者には、与党の党員でないとなれない。日本でいうところの県知事や、市町村の農業局の局長といった行政組織の幹部たちは、すべて政権与党の人間で占められている。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』102) マジか

2021-08-16 12:08:22
かんた @0sak1_m1d0r1

「わたし」の存在に「名前」が付随しているのではなく、国家に登録された「名前」が「わたし」のあり方を定め、かたちづくっていく。それが学校教育にしても、結婚にしても、固定した名前と性別にもとづく社会制度を可能にする。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』106)

2021-08-16 12:34:19
かんた @0sak1_m1d0r1

国家の「支配」とか「権力」というと、とかく表向きの統制の強さだけが想起される。けれど、それは内面化/身体化の度合いと深く関わっている。その制度があたりまえであればあるほど、国家が関与する密度は増す。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』107)

2021-08-16 12:39:35
かんた @0sak1_m1d0r1

国家の制度がぼくらの身体の一部となり、遠く離れた国境で囲まれた場所を自分の身体の一部として想像する。「わたし」の身体は「国家」の制度によって受肉され、

2021-08-16 23:57:41
かんた @0sak1_m1d0r1

「国家」の領域は「わたし」の身体の延長として現出する。この二重の運動のなかで「わたし」が生まれ、「国家」が実現する。でも、「わたし」の存在が国家と不可分だとしたら、「わたし」が変われば、「国家」も変えられるかもしれない。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』112)

2021-08-16 23:58:39
かんた @0sak1_m1d0r1

沖縄在住の政治学者ダグラス・ラミスは言う。芋とかニンジンとか大豆とか豆腐とか、日々の生活に不可欠なもののコマーシャルはない。コマーシャルは基本的にいらないものを買うように消費者を説得するためのものだ、と。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』130)

2021-08-17 13:37:17
かんた @0sak1_m1d0r1

税金を払っているのだから、あとは国がなんとかすべきだ、となる。政治に口を出したければ政治家になれ、と言われる。その閉塞した論理が、ぼくら一人ひとりに公平さを取り戻す責任や能力があることを覆い隠す。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』178)

2021-08-17 14:25:44
かんた @0sak1_m1d0r1

授業で語られる言葉、そこで換気される「学び」は、相手の必要を満足させる「商品」ではない。どう受けとってもらえるかわからないまま、なににつながるかが未定のまま手渡される「贈り物」なのだ。 (松村圭一郎『うしろめたさの人類学』181)

2021-08-17 14:29:10