日本的なるものについての考察~歴史の立体的認識と司馬遼太郎

今我々が考えている日本的なるものは、それがどんなに古いものを包含していようとも現代という平面における共時的な「日本」でしかない。日本的なるものは、それぞれの時代における共時的な認識から離れ、それを通時的に捉える中で立体的に認識されるものではないか。という考察。司馬遼太郎先生の「この国のかたち」にも言及しています。
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長野テル @naganoteru

歴史や文化を総合して「日本的」というものを見るとき、ぼくらは知らず知らずのうちにそれを現代という時点において共時的に捉えてしまう。「やまてなでしこ」ということばや茶道や着物が古いものだとは思っていても、ぼくらはそれらを無意識のうちに現代の文脈で理解する。

2011-08-18 15:20:09
長野テル @naganoteru

実際には、日本的なる一つひとつの事象に歴史と経緯があり、背景となる時代がある。現在考えられている日本的と百年前の日本的は別ものだし、五百年前、千年前の日本的も違う。そういう意味では、共時的認識に基づく日本的は、それがどんなに古いものを包含していようとも現代の日本的に過ぎない。

2011-08-18 15:26:13
長野テル @naganoteru

歴史を学ぶとは、日本的なるものの共時的認識から、日本的なる事象の通時的認識を通じて日本的なるものを立体的に捉えようとすることではないだろうか。そうして得られた立体的な日本認識なく、日本はああだこうだ、こうあるべきだと主張することにどれほどの意味があるのだろうか。

2011-08-18 15:30:03
長野テル @naganoteru

天皇とはを考えるとき、ぼくらは無意識のうちに現代の文脈で天皇を捉えてしまう。あるいは自分の生きてきた時代における天皇を。けれど、実際の天皇は通時的存在である。時代ごとにその性格を変え、そして現代に至る。日本社会における天皇の位置づけは、こうした通時的認識を無視しては成り立たない。

2011-08-18 15:34:17
長野テル @naganoteru

そしてまた、天皇だけを通時的に捉えればいいわけではない。その時代その時代の社会的、政治的背景もあわせて通時的に捉えないことには、天皇の日本的意義を導くことなどできない。そうして一つひとつの事象を通時的に捉えたとき、日本史は立体的となる。それこそが本当の意味での日本的なのだと思う。

2011-08-18 15:37:37
長野テル @naganoteru

靖国神社をめぐる論争は、多分に共時的認識の中での議論に終始している。論者の主観によってそれぞれの共時的認識が異なっているだけであって、人によって異なる共時的認識に基づいた論争に解など見いだせるわけがないと思う。共時的認識から立体的認識への議論の引き上げが必要なのではないだろうか。

2011-08-18 15:46:38
長野テル @naganoteru

「この国のかたち」というタイトルは、日本的なるものが現代という共時的な平面で捉えられるものでなく、立体的な、文字どおりかたちとして捉えるほかないことに対して自覚的である。この本を読んでいると、日本的なるものが現代という平面を超えて立体的に、ありありと見えてくる。

2011-08-18 16:45:28
長野テル @naganoteru

司馬遼太郎は、過去の歴史的事象を徹底的に調べあげ、その時代における共時的認識にたどり着いた。けれど氏は、微に入り細に入ることで陥りがちな全体感の欠落とは無縁だった。時代ごとの共時的認識を通時的につなげあわせ、それをひとつの立体的なかたちにした。そこに氏の凄みがある。

2011-08-18 17:03:52