谷川健一先生が研究した「大嘗祭の殺人」についてー継体天皇崩御直後のクーデターが日本の歴史を変えた

父・継体天皇とともに外から大和に入って王権を継承した「外来系皇子」の太子(安閑天皇)は、継体天皇が崩御するとクーデターで排除された。それは何故か?
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

日本の第2代天皇は、腹違いの兄が天皇(大王)になる即位儀式中に突入していき、戸板を開けて、自ら兄を射殺したと『記紀』に書かれてます。綏靖天皇(すいぜいてんのう)と言います。民俗学者の谷川健一先生(文化功労者)は「大嘗祭の殺人」を研究して、こうした記述が何故あるのかを研究しました。

2019-10-22 15:44:33
巫俊(ふしゅん) @fushunia

『古事記』『日本書紀』を分析すると、「大嘗祭の殺人」というテーマが浮かび上がります。これは谷川健一先生が研究を開始したものですが、隼人の女性を后妃とする神武天皇とその実子が共同でヤマトを征服した後、即位継承の儀式中に母系ヤマト人の綏靖天皇が決起して、兄を殺害したという話です。

2019-10-22 15:55:02
巫俊(ふしゅん) @fushunia

このとき、手足がぶるぶる震えて弓を引けなかったのが綏靖天皇の同母兄「神八井耳」(かむやいみみ)で、大王位を弟に譲り、祭祀を司ったとあります。彼らの母は「三輪の大物主」から生まれた「神の御子」で、神八井耳の子孫がいた神社は、三輪山山頂のちょうど真西にありますtwitter.com/fushunia/statu…

2019-10-22 16:20:28
巫俊(ふしゅん) @fushunia

この先にある多神社は、神社自体が弥生時代の集落跡だとされ、付近一帯は弥生時代前期から古墳時代後期にかけての遺跡「多遺跡」だとのことでした。 (奈良県田原本町多) pic.twitter.com/keJTKgy9wr

2019-05-03 01:05:45
巫俊(ふしゅん) @fushunia

継体天皇と神武天皇には一致点があり、6世紀に歴史書の編纂事業が始まった頃の「神話的思考」によって、「始祖」としてのイメージが重ね合わされて系譜が形成されました 「大和を統合した父」継体/神武 「排除された庶兄」安閑天皇/多芸志美美命 「庶兄を排除して即位した末弟」欽明天皇/綏靖天皇

2021-08-22 15:48:05

【反大和の外戚】
尾張氏/阿多之小椅君(隼人)
目子媛/阿比良比売
【親大和の外戚】
仁賢天皇/大三輪神
手白香皇女/富登多多良比売

巫俊(ふしゅん) @fushunia

継体天皇と神武天皇だけを比較すると、実在するとかしないとかいう不毛な話になりがちですが、継体天皇/神武天皇の崩御直後の「大嘗祭」の最中に末弟の欽明天皇/綏靖天皇がクーデターを起こした描写が『古事記』/『百済本記』から確認できるので間違い無いです。

2021-08-22 15:53:33
hyena_no_papa @hyena_no

こういうのって〝反映説〟って言うんでしたっけ? twitter.com/fushunia/statu…

2021-08-22 15:52:21
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@hyena_no 中国史畑でしたので、過去の説は事細かくは参照していないのですが、マイケル・ヴィツェルの日本神話及びインドイラン神話の比較などを参考にすると、「神話モチーフ」は限られた数しか無くて、それを分割して実際or伝説の人物等に投影した「歴史化」が行われたと説明するのが合理的です。

2021-08-22 15:58:58
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@Acid_66 『百済本記』は、白村江の戦いで日本に亡命してきた百済人が持ち寄った百済の歴史史料を編纂した百済の歴史書です。この歴史書の倭国についての記事は『日本書紀』編纂時に参照されてて、クーデター(辛亥の変)の部分は『日本書紀』が引用する形で記述が残っています。

2021-08-22 16:04:43
アシッド @Acid_66

@fushunia あ、そういう史書でしたか。 しかし・・・日韓の古代史というものは、まだまだいろいろありそうですなぁ

2021-08-22 16:09:00
ぴよる @3pyokkopyokko

前に読んだ本だとかつてのニ朝並立説に代表されるような安閑―宣化ラインと欽明の対立ではなく、宣化―欽明が繋がっていて安閑と対立してたんじゃないかという話があったので尾張系集団の中で安閑派と宣化派がいた可能性もあるのかな 歴史的に同母兄弟って仲悪くてその下の家臣団で派閥出来たりするから twitter.com/fushunia/statu…

2021-05-06 21:03:48
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@underflow14 物部氏がその後も存続して高位に就いてることを考えれば、一概に尾張系の集団とは言えない訳で、安閑天皇(百済本記では「太子」)の死後に尾張系の所領や系譜を相続して継承した人物が物部氏を形成したと考えるのが合理的な気がしますね。

2021-05-06 19:25:57
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@EpehDdfSBGvrQIB その辺の解釈は微妙ですが、『百済本記』では、天皇・太子・皇子がともに亡くなったと記述されてますので、これは谷川健一先生が研究されてた「大嘗祭の殺人」(綏靖天皇から始まる)の具体的事例で、宣化天皇も生命を落としたが、後に婚姻を通じて和談され宣化から先に名誉回復した、かな?と思います

2021-05-06 22:28:31
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@EpehDdfSBGvrQIB そのため、権力を後退させながらも和議に持ち込めた人たちが欽明政権に参加してる可能性がありそうですね。具体的には考えて無いのですけど。

2021-05-06 22:31:12
ぴよる @3pyokkopyokko

@fushunia いつも拝見させていただいてます。不躾なコメントにご返答ありがとうございます。 なるほどそういった見解もあるのですね。谷川先生の「大嘗祭の殺人」についてはタイトルは存じていたのですが読んではいなったので次に読もうと思います。

2021-05-06 22:56:25
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@EpehDdfSBGvrQIB 第二代・綏靖天皇が大嘗祭の最中に異母兄を暗殺して即位した故事が『古事記』にありますが、欽明天皇が異母兄(太子)を即位前に殺害したと見られることと似通ってます。

2021-05-06 23:02:18
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@EpehDdfSBGvrQIB 継体天皇及び神武天皇は、ヤマトにいた在来勢力の女性と婚姻関係を結ぶことで王権を相続してますが、継体天皇及び神武天皇が外から連れてきた子供(隼人の女性/尾張の女性から生まれた安閑天皇/タギシミミ)は王権を相続するにあたってヤマト在来女性と婚姻関係を結んでます。これが継承の条件でした

2021-05-06 23:05:22
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@EpehDdfSBGvrQIB ところが、継体/神武天皇には、ヤマト在来人の后妃から生まれた男子が存在しており、それが欽明/綏靖天皇です。その男子にとっては外来の異母兄の即位は脅威であり、皇位継承の大嘗祭中に暗室に籠る異母兄を襲った(綏靖)と『古事記』に書かれてます。

2021-05-06 23:07:26
ぴよる @3pyokkopyokko

@fushunia は〜なるほど、継体天皇と神武天皇にはそういった共通項があったのですね。欽明天皇の頃に旧辞、帝紀等が編纂されたのではないかという説も読んだことがあったのでその成立と関わりがあるのかもしれませんね。 大変勉強になります🙇

2021-05-06 23:23:39
巫俊(ふしゅん) @fushunia

欽明天皇の真陵の五条野丸山古墳(前方後円墳)は、安閑、宣化天皇の宮があった軽、檜前を睥睨する位置にありますからね…しかも未完成の大型古墳の河内大塚山古墳は、考古学者が「安閑天皇の未完成陵では?」と論文を書いてる。『日本書紀』は「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」と古記を引用してる pic.twitter.com/AIwkB3g9DD

2020-07-11 13:36:32
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写真は、推古天皇が最初に埋葬された植山古墳から見た「五条野丸山古墳」(欽明天皇の真陵)です。

宣化天皇(安閑天皇の同母弟)の立場については、神武・綏靖系モチーフと微妙に一致しないのですが、尾張系の「外来勢力」の皇子・安閑天皇に相当するのが隼人系の「外来勢力」の皇子タギシミミとするなら、タギシミミの同母弟のキスミミが『古事記』に出てきます(事績の記述は無し)。

宣化天皇のモチーフが曖昧なのは、欽明天皇即位以降のいつかの時期に「最初に名誉回復した」のが宣化天皇で、次いで安閑天皇も名誉回復して、両者が大王として在位したことに修正されたので、修正された後の歴史上の記述をそのまま信じて比較すると、モチーフの一致に気付けない訳でした。

巫俊(ふしゅん) @fushunia

「安閑天皇の未完成陵」説が有力とされる河内大塚山古墳について調べました。この古墳は「古市古墳群」に属してはいるもののあまり関係が無く、時代も6世紀半ばで、しかも前方部が未完成の大型古墳であり、辛亥の変で殺害された安閑天皇の未完成陵ではないか?とされてます shitennoji.ac.jp/ibu/docs/tosho…

2019-10-25 04:49:20
巫俊(ふしゅん) @fushunia

今城塚古墳(継体天皇)→河内大塚山古墳→五条野丸山古墳(欽明天皇)の順番でつくられたことが判明してるので、ここに入るはずだった人が、安閑天皇なんですね。しかし、クーデターで欽明天皇に殺害されたために、后の古墳に急遽、合葬されたとみられるそうです。

2019-10-25 04:52:01
巫俊(ふしゅん) @fushunia

『日本書紀』が引用する『百済本記』に、「天皇、太子、皇子がともに死去した」とあり、天皇は崩御した継体天皇、太子は安閑天皇、皇子はその弟の宣化天皇と見られてます。

2019-10-25 04:57:42