ソ連、1991年夏。不発だったクーデター
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思えば今日は8月19日。ちょうど20年前の今日、月曜日だったと記憶しているが国家非常事態委員会ГКЧПと称するソ連政府首脳たちによるクーデタПутчが起きた日だ。当時モスクワの日本大使館員だった私は、この事件をモスクワ時間午前6:00過ぎに東京からの電話で知った。詳細はブログで。
2011-08-19 18:03:15ブログよりもTwitterのほうが速いので、まずはこちらで。 月曜日の早朝モスクワ時間6:00のテレビニュースで国家非常事態委員会の声明が緊張した面持ちの女性アナウンサーによって読まれた。
2011-08-19 18:07:38声明は、「病気で執務不能になったゴルバチョフ大統領に代わって、ヤナーエフ副大統領が大統領代行を務める。ソ連全土に非常事態を導入する」という主旨だったが、私は寝ていたので、ナマでそれを見ていない。私がこの「クーデタ」(まだそう言われてはいなかった)を知ったのは東京からの電話でだ。
2011-08-19 18:09:58東京の新聞社にいる友人から「モスクワで政変が起こってゴルバチョフが拘束されたらしいよ。そっちは大丈夫?」という内容の電話だった。電話で起こされた私は、「えっ、ちょっと待って」と言って、窓の外を見た。私はモスクワの都心の「平和大通り」に面した9階建てアパートの7階に住んでいた。
2011-08-19 18:16:44窓の下に見える「平和大通り」はいつもと同じだった。トロリーバスがうなりを立てて走り、長距離列車の発着するリガ駅前の広場も、地下鉄リガ駅へ向かう歩道も、いつものように勤め先に向かう人々が急ぎ足で歩いている。「別に変わった様子はないけど」と私はとりあえず答えた。
2011-08-19 18:21:39そうこうするうちに大使館の経済班(当時)の公使から電話がかかってきた。すぐに出勤するようにとのことだ。まだ7時前。いつもは8時過ぎに出かけるのだが。出かける準備をしていると、いつものようにメイドのレーナが出勤してきた。彼女は何も知らなかった。6時のニュースは見てないと言う。
2011-08-19 18:25:30子どもはいつものように保育園に預けてきたとのこと。本当にクーデタなんか起きているのだろうか、と思いつつ、私は、ひょっとしたら役に立つかもと思って、バッグに愛用のニコンと36枚撮りのフィルムを2本入れて、家を出た。私は車を自分で運転して通勤していた。街はいつもと変わりなかった。
2011-08-19 18:29:40そのときは、それから3日間、つまり21日まで自宅には戻れなくなる(物理的にではなく、忙しくて)とは想像していなかった。そのことが予測できていたら、フィルムはあるだけ持って出かけただろうし、ストロボも予備の乾電池も持って出たはずだ。
2011-08-19 18:34:29大使館に着くと、すぐに会議。仕事の分担。私は政務班(当時)の所属だったが、防衛庁(当時)出向者なので防衛班(当時)とともに外回りの役になった。防衛班の3名の防衛駐在官と、警備だったか電信だったか、たまたま退職自衛官が一人いたので外回りは5人体制となった。
2011-08-19 18:37:52大使館付きのロシア人ドライバーたちは、さすがに状況がわかってきたと見え、公用車を運転するのを危険だからと嫌がった。そこで仕方なくドライバー付きレンタカー(つまりハイヤー)を借りることにした。このドライバーは、戦車のあとも追いかけてくれたし、細い路地もよく知っていた。
2011-08-19 18:44:43戦車がモスクワ市中心部に到着したのは午前10時過ぎだ。それまでは街の雰囲気はいつもと同じだった。事情を知らないモスクワっ子たちは、「今日は何かのパレードの予行演習?」とか言いながら、戦車や装甲車に驚く様子もない。そうかと思うと、さっそくテレビカメラをしょった取材クルーが戦車に。
2011-08-19 18:47:07駅や放送局、橋などの重要拠点を調べるために街を走り回りながら、徐々に増えてくる戦車を数えメモをしていく。取材陣が近づいている戦車を見つけ、私も車を降りて戦車に近づき、質問した。戦車の車番は消されていない。兵隊は所属部隊をこともなげに答える。ライフルの弾は持たされていない。
2011-08-19 18:50:39この兵隊は、いつも通り起きたあと、緊急出動ということで、朝食も摂っていない。食事は携帯食料だ。演習と思い込んでいる。戦車の車番は消していない、朝食は摂っていない、実弾は持たされていない、所属部隊は平気で答える。これは、軍事クーデタとしては失敗するのではないかと、このとき直感した。
2011-08-19 18:57:03昼過ぎ大使館に集合し、情報を集約した。市街地図に数えた戦車として虫ピンを刺していく。おびただしい戦車の数。やはりこれは演習ではなくクーデタだ。とくに警戒が厳しかったのは当然クレムリンと、そしてオスタンキノの放送局だった。クレムリンはぐるりと戦車と装甲車によって取り巻かれていた。
2011-08-19 19:00:21クレムリンや放送局の周囲を警備していた戦車や装甲車の兵士の士気は高く、近づけない。近づこうとするとライフルを構えるからだ。車から降りることもできず、距離を置いて移動しながらシャッターを切るしかなかった。
2011-08-19 19:04:39.@UenoToshihikoさんがソ連クーデター時の経験を連続Tweetしている。現地の生々しい体験談で必見です。
2011-08-19 19:57:50粛清に代表されるスターリン時代の源流がレーニン(byソルジェニーツィン)だとすると、今の時代の源流はエリツィンと言っても過言ではなかろう。自由化も、政治経済の不合理も含め。
2011-08-20 08:33:44ソ連邦の解体に果たしたエリツィンの役割は様々なところで述べられているが、それと同時に名も無い無数の人々も同時にいたのだろう。昨日の保守派クーデター未遂20周年に特段の感慨はなかったが、あれが契機だったのは間違いないんだろうな。今に繋がる時代の節目。
2011-08-20 08:39:20エリツィン時代も今も基本変わりませんよ、と思う。あの時代を賞賛するなら今をdisるなかれ。
2011-08-20 08:27:1891年の8月クーデターの時 KGB特殊部隊「アルファ」は、ホワイトハウス突入命令を受けているが、これを拒否している http://t.co/IAHioES
2011-08-20 17:50:17トゥギャリ閲覧感謝で追加ネタ投入。91年のソ連保守派のクーデター未遂。実はあの時、上野先生と同じように近くで見ていたという人の話を聞いたことがある。当時のモスクワ大使館勤務の方。以下、聞いた話の要約。まぁ又聞きですので話半分以下で読んでください(続
2011-08-21 19:30:04あの時はソ連の地上波は全て白鳥の湖を流し、外国放送は画像を送れなくなった。しかしCNN一局は街灯の映像を流し続けていた。つまり、CNNを止めたら世界からハブられるということをソ連政府も認識していたということらしい。それ程にCNNの影響力は侮れないと思った(続
2011-08-21 19:30:42