罪とは何か?キリスト教の観点から。

日本語で罪というと刑法を始めとする法律やルールを破るような悪いことを想定しやすいと思うけど、キリスト教でいう「罪」は神や人との関係破綻で愛し合えなくなってる状態だよというお話。コンピューター、ハードウェア、プログラミングを例えに「神」、「罪」、「イエス・キリスト」、「救い」とはなんぞやについてキリスト教の観点から説明してみた。
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Hokuto Ide @Hokuto_Ide

罪とは何か? キリスト教における罪は神と人を愛さないこと。 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」の最も大事な2つの戒めに違反すること。 これには「愛を実践すべき時にしない」という不作為の罪も含まれている。 →

2021-09-10 22:51:21
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え」にプラスして「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい」と命じられた。また、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」とも命じられた。 無理難題を押し付けてるのか? →

2021-09-10 22:51:21
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神様は元々愛の実行が不可能なスペックで人間を創造したのか? そうじゃないと思う。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」 我々もイエス様もハードウェアは同じものを支給された。 →

2021-09-10 22:51:22
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

ただ、パソコン持ってる人が全員即天才プログラマーかというと、そうではないのと同様に、イエス様のように神と人を愛する性能はあるのだが、愛の実践に習熟するための訓練と経験を生まれたときから十分に積んでないということだと思う。 「愛する」という能力に関しては人は皆イエス様と同じだ。 →

2021-09-10 22:51:23
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

何がイエス様と我々のパフォーマンスを分かつのか? 神との信頼関係だと思う。神を天の父として、全幅の信頼を寄せ、愛を受け取り、また愛すること。自分の中には愛がなく、神のみが真の愛の源泉であることを認め、神の愛で自分を満たされ、溢れた愛を隣人に分かち合うこと。この度合いだろう。 →

2021-09-10 22:51:23
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

聖書の言葉から神の声に聞き従い、愛を受け取り、祈りを通して願いを伝え、心の悲喜を分かち合い、神と自分の1対1の信頼関係を構築することが愛の前提だと思う。アダム以来この前提が崩壊したことを原罪と呼ぶのだろう。 イエス・キリストの十字架の贖罪と復活によってのみこの前提は回復される。 →

2021-09-10 22:51:24
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神が人に「イエスのように行きなければ全員即アウト!」と無理難題を押し付けてそれを守れない全人類は皆罪人だというような理不尽な話では全く無いわけだ。 イエスのように愛せるように神は人を創られた。しかし、その愛の性能を十分限界まで引き出すには、神との愛の信頼関係が不可欠なだけ。 →

2021-09-10 22:51:24
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人が神の愛を拒み、捨て、神が自分を愛する事実を疑い、神を裏切り、信頼関係を自分から壊して、それを放置している。ここにどうしようもない問題がある。 そこに神の子が人として世に来てくださり、自分の命を代償にし愛を裏切ったを清算し、復活し、神と人との関係を回復しようと仲立ちされた。 →

2021-09-10 22:51:25
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

この仲立ちを受け入れ、神との関係再開の第一歩を踏み出すことこそ、救いだ。救いとは「愛さない」という罪からの救いだ。イエス・キリストの十字架と復活によって「愛さない」罪を贖われ、神と人との真の愛の関係を構築しようとするスタート地点に立った人を「クリスチャン」と呼ぶのだろう。 →

2021-09-10 22:51:25
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

クリスチャンになったからと言って、その瞬間から即イエス・キリストのように神と人を愛せるようになったことにはならない。同じスペックのハードウェアは元々持っているが、電源を入れただけで、天才プログラマーになるわけではない。 愛の実践を神の助けと試行錯誤で習熟する「聖化」のがある。 →

2021-09-10 22:51:26
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

愛の実践においてイエス・キリストのように習熟するまでには人それぞれ上達するまでのスピードにばらつきは出るだろう。日々愛の実践をできるよう願い、神に祈り、意識して心を一新し、練習するかどうか。やらなければ何十年経過しても当然上達はしない。 パソコンも持ってるだけでは鉄の塊だ。 →

2021-09-10 22:51:26
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

愛の実践に踏み出すかどうかは完全に人間の自由意志に委ねられている。愛は強制されてやるものでも義務感でやるものでもないからだ。自発的な愛でなければ偽物だ。 多く赦された者は多く愛する。多く赦された者は、多く愛せるように自分が創られたことと、多く愛さなかった罪を自覚している。 →

2021-09-10 22:51:27
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

だから、愛さない罪をどれくらい大きく認識するのかは、元々神が人をどれくらい愛せる性能を備えて創ったと認識するかにかかってくる。 元々愛せないように創ったなら、理不尽な神だ。 元々愛せるように創ったなら、愛さない自分が悪い。 神はイエス・キリストにより人の愛の性能を実証された。 →

2021-09-10 22:51:28
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

なぜか? 神の子イエス・キリストは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」からだ。 「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」のに愛さない罪を犯さなかったからだ。 だから自分は信じることができる。人は神と人を愛することができると。愛を諦めなくてもいいと。 →

2021-09-10 22:51:28
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」 善とは愛を実践することだ。今はできなくても諦めずに、天の父なる神様に愛を求め、愛を受け取り、愛を人に分かち合おうと試行錯誤し、昨日よりも今日、愛の実践において上達していく過程だ。 →

2021-09-10 22:51:29
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

今はできなくても明日は愛の実践が上達するように、全知全能で正義で愛である神が助け導いて下さること、これを信じるのが信仰だろう。 この信仰を前提にして将来の愛の実践が今より上達した自分を見ることが、希望だろう。 信仰と希望と愛はいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

2021-09-10 22:51:29