古代日本の馬の産地

シマウマならぬ縞馬の話
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

◆古代の日本には「縞模様」という言葉は無かった。「縞」(こう)は白い布を指した言葉で、「縞」をシマと読むのは江戸時代の当て字だった ◆「しまもよう」はポルトガルのストライプ柄を「南の島の模様」と呼んだことに由来 ◆藤原実資の日記『小右記』には「島馬」が出てくるtogetter.com/li/1776222

2021-09-18 20:27:11
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「縞模様」の名前の由来になったストライプ柄の特定の生地が、ポルトガルかスペインのどちらから来たかは確認してませんが(両国が同君連合で一体化しつつあった頃もあり、ややこしい)、辞書の縞模様の起源の説明では「ポルトガル等から」とあるようです。

2021-09-18 20:37:21
巫俊(ふしゅん) @fushunia

◆実は古代の西日本では馬は「島」や「河口」などの低湿地で飼われていた ◆長崎県や瀬戸内海の島々に「馬産地」が点在していた ◆平安貴族はそうした馬に騎乗し、その馬を「島馬」と呼んでいた ◆中世までに開発が進み人間による伐採などで高原に草地が生まれると、現在イメージされる牧場が生まれた

2021-09-18 20:42:28
巫俊(ふしゅん) @fushunia

◆「海の中に馬産地がある」ということは、船に乗った小集団でも「騎乗」して上陸戦闘ができた ◆これが「琉球王国」の形成につながる「海上武装勢力」の形成 ◆平安以前に「九州日本語」から分岐した「琉球祖語」を話す人たちが「海の交易ルート」に参加し、城郭と牧を作りながら九州から沖縄へと南下

2021-09-18 20:51:14
杉並ボードゲーム同好会 @suginamibgc

@fushunia この説だと、平将門の武力の源泉が馬の生産地をおさえていた事に説得力が生まれる。将門の本拠地は小貝川鬼怒川沿いで中世は湿地帯が広がる地域だった。乱に繋がる親族間の争いも、自由に湿原で放牧されていた馬をめぐる争いだと考えると納得。

2021-09-18 20:53:04
杉並ボードゲーム同好会 @suginamibgc

@fushunia 将門の乱は東日本の話ですから、そこは違う点。

2021-09-18 20:53:56
アプロ @rUyaCVtIiRxgC9M

>◆「海の中に馬産地がある」ということは、船に乗った小集団でも「騎乗」して上陸戦闘ができた お隣の国でも、済州島は馬の産地ですしね。 twitter.com/fushunia/statu…

2021-09-18 20:58:01
巫俊(ふしゅん) @fushunia

◆飛鳥時代の日本列島の軍事ドクトリン・軍事考古学 ◆軍事的には強大な関東がヤマト王権に従属したのは何故か?畿内には恒常的な戦闘は無く、戦闘経験者の集団は関東にいた。 ◆百済から要請された海外派遣兵種が「重装歩兵」だったので、倭国内では乗馬の習慣が広がりながらも重装歩兵に拘泥し続けた

2021-09-18 21:03:38
野間 直彦 NOMA,Naohiko @nomanao

へえーそうなのですか。愛媛県にいる在来馬「野間馬」も「島馬」の流れをくむものなのかな? twitter.com/fushunia/statu…

2021-09-18 21:14:31
野間 直彦 NOMA,Naohiko @nomanao

(ちなみに僕の父方の祖父が生まれたのは、いま野間馬のいるところ-そのあたりに乃万郡という地名もあった-から来島海峡を隔てた島なので、先祖も野間馬を使っていたかも、と想像しています)

2021-09-18 21:34:18
巫俊(ふしゅん) @fushunia

馬は、湿原の環境に向いてる動物では無いそうなので、古代の「島の馬」の生育環境が気になるところですが、古代の管理技術や色々な条件では「島」や「河口」で馬を育てるのが「最適」だったということです。かなり不利な条件なのに「最適」だったのには事情があるということですね。

2021-09-18 21:40:53
巫俊(ふしゅん) @fushunia

古代は日本の人口も中世後期よりずっと少ないので、馬が逃げないように管理するのに「低湿地」「島」が向いてたってこともあると思いますし、高原などの適地は古代には森林が多く残っていて、それらの伐採が進んで土壌が流出し、草地になることで「馬の飼育」に有利な高原の環境が整備されていった。

2021-09-18 21:43:38
巫俊(ふしゅん) @fushunia

古代の日本で馬に食べさせる植物を確保するには、低湿地が適当で、そうした理由から「島の馬」が生まれたのだと思います。馬の飼育が日本列島に広がったのは古墳時代の5世紀ですから、古代においてはまだ新しい伝統で、馬に関する知識も相対的には不足してた可能性がありますね。

2021-09-18 21:49:22
巫俊(ふしゅん) @fushunia

世界の各地では、必ずしも馬が「最適」な飼育環境で飼われてたとは限らなくて、とくに酷暑のインドでは馬に関する適切な知識が欠いた状態で馬を輸入するものだから、どんどん馬が死んでいったという故事もあります。

2021-09-18 21:51:08
巫俊(ふしゅん) @fushunia

それに古代の日本は、匈奴と接してた漢帝国などとは比べ物にならないくらい、「馬飼育技術で優勢な敵対勢力による脅威」から解放されてましたので(蝦夷という馬を使う敵が成長しつつありましたが)、「弱い馬」であっても相対的には「弱くなった」と思われます。

2021-09-18 21:54:13
巫俊(ふしゅん) @fushunia

ただ、平安時代になると陸奥国の馬が、京では高値で取引されたことがありまして、伊賀国の馬の方がもっと安かったとありますので、通説的な感覚で知られてる「より適切な環境で飼われていた馬」も既に出現していたはずです。

2021-09-18 21:55:58
巫俊(ふしゅん) @fushunia

↑2個上のツイートの「弱くなった」は「弱く無かった」の間違いです。失礼致しました。

2021-09-18 22:19:14
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@nomanao 野間馬については恥ずかしながら、よく存じてませんでしたが、時代が違うとはいえ島で育てた馬だそうですね。

2021-09-18 22:50:00
野間 直彦 NOMA,Naohiko @nomanao

@fushunia ・今治藩が馬島という島で軍馬を育成したのが起源 ・それは失敗したが今治近郊の野間(乃万)という所の農家に繁殖を委託→野間馬の呼び名に ・越智郡の島々にも農耕・運搬用に戦前まで多数いて、今残っている野間馬にもその血が ということらしいですが、平安時代の島馬との関係はわかりませんね。

2021-09-18 23:25:56
野間 直彦 NOMA,Naohiko @nomanao

@fushunia 越智郡(今は今治市)の大島に19世紀末に生まれた祖父が野間馬を見ていたことはほぼ確実と思われますが、祖父の家に飼われていたかどうかはわかりません。 戦前戦後に祖父の帰省に連れられて行ってた父と伯母たちは見たことがあるか、聞いてみます。

2021-09-18 23:45:17
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@nomanao 詳しくないので推測ですが、島で馬を飼うこと自体は、馬の知識が向上したり中世以後の世相が変わったりしても変わらないのだと思います。その飼い方の内実や、馬の飼育業の人たちの移動関係などが「古代の島馬」との連続性が全くない可能性もあると思いますし、幾らか連続はしてる可能性もあるかもです

2021-09-18 23:48:33