2021.09.19 青天を衝け(27)「篤太夫、駿府で励む」放送後の桐野作人先生による解説ツイート

9/20追加更新
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桐野作人 @kirinosakujin

昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」。深夜に録画で視聴。静岡退隠の徳川慶喜と箱館戦争の関係。榎本武揚たちが箱館を占拠した頃、駿府徳川家に鎮定させてはどうかという意見が明治政府から出てくる。そうした声に押されて、明治元年10月、徳川家から政府に榎本軍との交渉をしたい旨の願書が。#青天を衝け

2021-09-20 08:58:51
桐野作人 @kirinosakujin

徳川家から箱館派遣の候補者として、慶喜、幼主家達、そしてフランスから帰国した昭武も挙げられた。徳川家としては、幼い家達を出陣させるわけにはいかず、慶喜が出陣することで、朝敵からの赦免を早期に勝ち取ろうという思惑もあったようだ。慶喜の本意だったかどうかは不明。#青天を衝け

2021-09-20 08:58:51
桐野作人 @kirinosakujin

その後、榎本軍の抗戦姿勢が明らかになると、その征討に慶喜を担ぎ出すべきだと主張したのは大久保利通。その日記11月12日、参朝して「慶喜謹慎断然免ぜられ、賊艦処分致させ候、活眼の御処置あらまほしく議論に及び候えども、異論ほかに無く候えども、条公異議あり、今日まで不決に候」#青天を衝け

2021-09-20 08:58:52
桐野作人 @kirinosakujin

徳川主従に戦わせるという大久保の意見に反対したのは条公、三条実美だった。三条は木戸孝允に「(大久保の案は)窮余の一策であり、信用できない。公論によって決すべし、ただし、徳川亀之助(家達)の出兵は可能である」と述べている。これをきっかけに慶喜の謹慎解除の動きが出てくる。#青天を衝け

2021-09-20 08:58:52
桐野作人 @kirinosakujin

大久保の日記によれば、11月14日条に「慶喜謹慎御免の一条、種々評議これあり、先願の通り免ぜられ候筋に相決し候」とあり、慶喜の謹慎解除が内定した(公表は翌2年9月)。その間、大久保日記には勝海舟が岩倉具視や大久保に「内願」しており、慶喜の謹慎解除の歎願だったと思われる。#青天を衝け

2021-09-20 08:58:53
桐野作人 @kirinosakujin

昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」。五代様こと五代才助がかなり登場し、渋沢栄一との遭遇も描かれました。そして、大隈重信や伊藤博文などのちの明治政府の重鎮たちも登場。築地の大隈邸での談合場面に、五代様も姿を現しました。時期は榎本軍が降伏した明治2年5月頃かと思われます。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:53
桐野作人 @kirinosakujin

この大隈邸での会合はのちに「築地梁山泊」と呼ばれましたね。大隈はこの頃、会計官副知事(大蔵省次官相当)という重職にありました。大隈は維新出遅れ組の佐賀藩出身ですが、立身のきっかけは、あまり知られていませんが、薩摩藩家老だった小松帯刀からの抜擢です。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:53
桐野作人 @kirinosakujin

当時、小松帯刀は外国官副知事(外務次官相当)でした。外国官を含む当時の七官(のちの省部相当)で、その知事・副知事(長官・次官相当)は公家や大名が任命されたなかで、唯一藩士身分で副知事になったのが小松でした。でも、小松は病状悪化で退職を決断し、後任に大隈を推挙しました。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:54
桐野作人 @kirinosakujin

大隈の指名は意外でした。当時の外国官で小松の部下には、薩摩の五代才助、寺島宗則、町田久成、長州の井上馨、土佐の後藤象二郎などがいました。小松が自藩出身で洋行経験もある後輩の誰かを後任に指名しても情実人事とはいわれなかったでしょう。小松は大隈の実績を高く買っていました。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:54
桐野作人 @kirinosakujin

大隈は長崎裁判所(外交事務も担当)時代、浦上キリシタン問題で英国公使パークスと渡り合ったり、旧幕府借款返済交渉で活躍。小松はその働きぶりを見て適任だと思ったのでしょう。大隈ものちに小松のことを「事にあたって公平を期し、一片の私心も挟まなかった」と評しています。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:55
桐野作人 @kirinosakujin

明治2年3月、大隈は外国官副知事と会計官副知事(大蔵省次官)を兼務し、明治政府の財政・外交問題となっていた贋貨問題に取り組みました。 大隈が築地に邸宅を構えたのが同年4月ですから、箱館降伏の1カ月前です。「築地梁山泊」はそこから始まり、大隈の知友たちが集まりました。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:55
桐野作人 @kirinosakujin

その頃、伊藤博文は大蔵少輔ですから、大隈の部下になりますね。一方、築地梁山泊に姿を現した五代友厚は大阪で外国官権判事でしたが、明治2年5月、ちょうど箱館降伏のとき、会計官権判事に異動して横浜勤務となります。ですから、築地梁山泊に姿を現してもおかしくないです。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:56
桐野作人 @kirinosakujin

しかし、五代は横浜転任からわずか2カ月で退任し、野に下り大阪に帰ります。大阪では官民挙げて、五代の大阪復帰を請願する一大運動が展開されており、五代はそれに応えました。5年前の朝の連ドラ「あさが来た」で、あさ(波瑠)の夫、白岡新次郎(玉木宏)も請願書に署名した一人です。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:56
桐野作人 @kirinosakujin

「築地梁山泊」に大隈、伊藤、五代らが結集した時期と箱館戦争の終結はちょうど時間的にパラレルで、それに渋沢の動きもからめてあり、史実を重視しつつ、これまで描かれなかった視点を取り入れて、非常によく出来たドラマ構成だったと思います。#青天を衝け

2021-09-20 09:31:57
桐野作人 @kirinosakujin

昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」余談。脇道にそれますが、五代友厚と大隈重信の関係。年齢は五代が大隈の3歳上。出会いはおそらく慶応年間の長崎ではないかと思われる。五代は英国使節派遣前後で、帰国後、藩の勝手方外国掛として、英国商人グラバーと提携し、パリ万博の出展準備中。#青天を衝け

2021-09-20 10:19:32
桐野作人 @kirinosakujin

大隈は慶応年間、長崎で米国宣教師フルベッキについて英学を学び、長崎に英学塾「致遠館」を設立。例の偽西郷などが写った有名なフルベッキ写真の面々の塾。 2人は明治政府でともに外国官や会計官の同僚同士で、非常に仲がよかった。五代が下野したのちも、大隈は出世する。#青天を衝け

2021-09-20 10:19:33
桐野作人 @kirinosakujin

明治2年に大蔵省と民部省が合併した(民蔵合併)。内政の多くを所管する強大な民蔵省が誕生。大隈が大蔵大輔と民部大輔を兼任。伊藤博文、井上馨らが結集し、木戸孝允が支持した。一種の長州閥の牙城である。これに大久保利通や広沢真臣らが反対し、合併か分離か、大きな政治問題へ。#青天を衝け

2021-09-20 10:19:33
桐野作人 @kirinosakujin

翌3年、大久保らの主張が通り、再び民蔵分離となった。おそらくこの民蔵分離の頃だと思うが、五代が大隈に5カ条の忠告状を送っていて面白い。 1.部下の意見を聞きなさい。閣下は賢明すぎる短所がある。 2.部下の意見が閣下の意見とそれほど変わらないなら、部下の意見を採用しなさい。 #青天を衝け

2021-09-20 10:19:34
桐野作人 @kirinosakujin

3.怒気、怒声を発するのは人望を失う基である。 4.政務を決断するのは情勢が煮詰まってからにしなさい。 5.自分が嫌う人は、その人も自分を嫌うだろう。自分と相性の合わない人ともつとめて交際するように。 懇切丁寧ですが、非常に耳の痛い忠告ですね。思い当たる方もいるでしょう。 #青天を衝け

2021-09-20 10:19:35
桐野作人 @kirinosakujin

3歳年長の五代ゆえの忠告ですが、こうした諫言できるのは、むしろ2人の仲が親密でお互いを信頼しているからでしょう。 なお、この忠告状は明治7年だというのが通説ですが、私見では大隈伝記「大隈侯八十五年史」の明治3年説に説得力を感じます。 #青天を衝け

2021-09-20 10:19:35
桐野作人 @kirinosakujin

ところが10年後、開拓使官有物払下げ事件を機に明治13年政変が起きて、大隈が政府から追放されます。この事件に五代も関与していたとされ、大隈とは敵対陣営でした。この政変は謎が多くて今でも解明されていませんが、この政変渦中でも、2人は交流を続けており、政変で決裂していません。#青天を衝け

2021-09-20 10:19:35
桐野作人 @kirinosakujin

高輪築堤の調査と破壊が進む。レールや材木なども出土。日本の近代化の苦闘と努力を示し、世界遺産に申請してもいいくらいの一級の遺跡だが。 大河ドラマ「青天を衝け」昨日進行時点とちょうど同じ頃に工事が着工されている。 tokyo-np.co.jp/article/131982 #青天を衝け

2021-09-20 13:25:21