日常的概念と理論的概念:エスノメソドロジーと哲学の視点
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読んだ。/Dennet, Daniett, 2005, "Philosophy as Naive Anthropology: Comment on Bennett and Hacker"
2011-08-23 00:58:29こっちも。/Bennett, M. R., & Hacker, P. M. S., 2006, "Reply to Professor Dennett and Professor Searle"
2011-08-23 00:58:52ベネットとハッカーの立場について、両者の違いがより明確にわかった気がする。お互いを攻撃する仕方がフェアじゃない部分があって、読んでてよい気持ちがしない部分もあるけど、それを省いて大雑把にまとめるとこんな感じかな。
2011-08-23 00:59:28ベネットは、神経科学の多くにデカルト主義が残っているという点でハッカーたちに同意するし、理論がナンセンスとならないように概念の用法に注意を払うことが哲学者の仕事であることにも同意している。
2011-08-23 00:59:51ハッカーたちが神経科学の少なくない仕事に見いだすのは、「全体と部分をとりちがえる誤謬(mereological fallacy)」とかれらが呼ぶ誤りだ。
2011-08-23 01:00:13すなわち、「考え」たり、「知って」いたり、「意識して」いたりするのは、全体としての人間であるのに、「脳(の一部)」がそれらをしているかのように考えてしまう誤りがある、とかれらは言う。
2011-08-23 01:00:30そうしたナンセンスによって、本来説明されるべきことが、あたかもすでに説明されたかのように扱われてしまうことで、科学的探求が阻害されることがある。それゆえ、そうした混乱は取り除かれなければならない、というのがかれらの考えだ。
2011-08-23 01:00:51それに対してデネットによれば、「脳(の一部)」に心的語彙を帰属することは、誤りではない。神経科学者たちは、全体としての人間に帰属するときとは少し違ったやりかたでその語彙を用いているのであり、かれらのやりとりの中でその語彙はちゃんと意味を持っている。
2011-08-23 01:01:12神経科学者のあいだでの心的語彙の用法は、いわば「方言」なのであり、ハッカーがそれに親しんでいないからといって、それを無意味だと切り捨てることは、まったく生産的ではない。実際、そうした語彙の用法によって、科学的探求が促進されているのだから、というのがデネットの考え。
2011-08-23 01:01:41神経科学者が心的語彙を用いるやりかたが、日常的なそれとは異なっていることに関して、両者に見解の相違はない。だから、違いはその評価にある。ハッカーたちはそれを科学にとって阻害的だと考えていて、デネットは促進的だと考えている。
2011-08-23 01:02:10デネットが正しいと思うのは、かれが言うように、科学者たち自身の独特の語彙によって科学が営まれている以上―そしてそれが神経科学のみならず多くの科学でそうである以上―、それを単純に「誤謬」と切り捨てて終わりにすることはもはやできない、という点。
2011-08-23 01:03:12他方で、ハッカーたちが正しいと思うのは(そしてこの問題にとって決定的だと思うのは)、科学者たちは別に自分たちにとってだけの「思考」「知識」「意識」などなどを探求しようとしてるのではなくて、「私たち人間の」思考・知識・意識などなどを探求しようとしているはずだということ。
2011-08-23 01:03:42であるなら、独特の用法が通用しているというだけではやはりすまなくて、それによってあきらかにされているものが、人間の思考・知識・意識などなどといかなる関係にあるのか、ということが明確にされなくてはならない。でなければ、それらは人間の思考・知識・意識などなどの探求ではありえなくなる。
2011-08-23 01:04:00しかし、その問いに取り組むためには、デネットが言うように、神経科学者たちの語彙をきちんと知らなくてはいけない。そこでは哲学者の直観に頼るわけにはいかない。だからそのための探求は、経験的におこなわれるべきものだろう。
2011-08-23 01:04:59そしてどちらも触れていないけれど、日常的に私たちが心的語彙をどのように用いて、どのように社会生活を組織しているのかという問いも、哲学者の直観だけでは必ずしもやってゆけない、経験的に探求されるべき問いだと、私は思う。
2011-08-23 01:05:25えーと要するに、一方で現在すでに科学的探求が十分営まれているという理由でそこでの心的語彙の用法を正当化することはできないし、他方それらと日常的用法との関係を「経験的に」吟味することなしに、「誤謬」と切って捨てることもできない、というのが、私の「どちらでもない」部分。
2011-08-23 01:05:54コンピュータが「計算する」とか言っても特に「計算する」の意味が大きく変わったりしないように、通常の用法と特殊な用法を綺麗に使い分ける能力を私たちは持っていて、大勢では何の問題もなく、言葉の変化も起こさず、科学は進歩していくかもしれない。
2011-08-23 01:06:49