「敵を愛せ」が無理ゲーにならない論理

敵を愛するなんて絶対無理でしょ?そう。無理です。なら、なんでキリスト教はその無理をゴリ押しするような教えをするの?人と人だけでは無理だからこそ、神の介入が必要なんだけど、どうやったら介入してもらえるのか、というお話。
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Hokuto Ide @Hokuto_Ide

祈りをはじめとして、信仰者にできることというのは、自分で器を満たそうとすることの限界を受け入れ、空っぽの器を借りてきて神から授かるものを受け取れる準備をすることのように感じる。空の器持ってきて何も起きなかったら愚かに見える。だけど神の愛を信頼して満たしてくださるほうに全部賭ける。

2021-10-04 22:42:40
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

祈って何も行動しないのではない。行動するにはするのだが、神側からの介入がなければ全く意味のない行動に走ることだろう。神側の介入を予期しない人からは論理的にあり得ない無謀な選択にも見えるかもしれない。しかし人にはできないことを通して神はその存在と栄光を知らしめるのではないだろうか?

2021-10-04 22:47:40
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人にはできないことの最たる事例が十字架で死んだ者が3日後に復活することだろう。神ご自身がこの世に直接介入し、刑死した者、イエス・キリストが被せられた罪が冤罪であったことを明らかにし、冤罪を被せた偽善者の罪を晒し、神の全知全能の力、正義、愛、栄光を人の目の前に明確に提示した出来事。

2021-10-04 22:52:53
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神側の介入なしにはすべてが無駄に無意味になる。しかも神が介入するかどうかは分からない。分からないけど何か介入してくださるはずだと、神の正しさ、力、愛を信頼する行動。この生き方で、神の栄光を現実の世界の具体的な出来事を通して表す生き方を、義人は信仰によって生きると言うのではないか。

2021-10-04 22:57:01
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神の介入なしには海を前に杖を上げるだけ、城壁の周囲を回るだけ、巨人を前に石を投げるだけ、川で皮膚病を洗うだけ、最後の食材で預言者に料理するだけ、船の右に網を下ろすだけ、人の側の一見無意味な、状況を変えるのに何の役にもたたない行動で終わってしまうだけ。しかし確実に実行できる行動だ。

2021-10-04 23:04:07
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神はその御業を表す条件として無理難題を人に要求することはしない。やろうと思えば必ずできる行動を要求される。しかし、その行動は神がその人を助ける意思を持つ、つまり愛してくださっていること、助ける能力がある、全知全能であること、正しいことを信じて信頼しなければ起こせないような行動だ。

2021-10-04 23:07:37
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

信仰は神を信頼して神側の介入を前提にした行動によって目に見える形で表れる。自分が敵に害を受けても、神が世界に介入して、その受けた害を帳消しにして余りあるほどの何かをしてくださる全知全能の力、公平な正しさ、意思つまり愛があることを信じる信仰があってこそ、敵を愛することは可能になる。

2021-10-04 23:14:00
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人は人の力だけでは全ての隣人を無条件に神のように愛することはできない。愛することで損害を受ける事例があるからだ。愛するだけでは善悪の帳尻が合わないからだ。イエス・キリストの十字架と復活で示された善悪の収支を釣り合わせるために世界に現実的に介入する神の愛、神の力、神の正義が必要だ。

2021-10-04 23:20:11
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

この人なら神の力と愛と正義を信頼するはずだと、神が見込んだ人にこそ、神は人の力では乗り越えることのできない課題を与えるのかもしれない。人が神の介入を信じる前に、実は神様がその人を信じており、また知っておられる。神と人の双方向的な信頼関係が、信仰によって生きる人の前提になっている。

2021-10-04 23:26:58
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人にはできないような愛の行動を示すことができるように見える人の舞台裏には共同作業する全知全能で正義で愛の神が隠れている。無神論者だった以前の自分には敵対者である自分に善意を施すクリスチャンは不合理に、不思議に、しかし暖かく感じられた。その違和感こそ、隠れた神の業だと今なら言える。

2021-10-04 23:32:19
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

敵を愛するクリスチャンを見た自分はその生き方に憧れた。自分もそうなりたいと思った。しかし自分には不可能であることも瞬時に分かった。彼らにあって自分にないもの。それを知るために聖書を学んだ。神との信頼関係。自分にはそれがなかった。イエス・キリストの十字架と復活が自分には必要だった。

2021-10-04 23:36:41
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

自分は神を知ろうとしたがらなかった。神を心に置こうとしなかった。神を尊重も感謝もしなかった。神と自分は関係がなかった。関係が構築できてなかった。神の愛を無視し、神と人を愛せという掟を破り敵対していた。それが罪だった。罪を償う唯一の罰は死だった。神の子が代わりに死刑になり復活した。

2021-10-04 23:47:55
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストは神の子なのに人と同じ様になり、人の間に住み、自分を含め全ての人の罪を肩代わりし、人の身代わりになって十字架で死に、復活した。それは壊れていた神と自分の関係をとりもつためだった。そうしてまで自分との関係を回復したいほど神が自分を愛していた。その愛を信じ受け入れた。

2021-10-04 23:53:30
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神の愛は目に見えない。神も目に見えない。だから神としては、目に見えるような方法で、神の愛を示すために、人に配慮し、人に歩み寄り、人に合わせて、実際に人になってまでして、神がどれほど人を愛してるかを、神の愛がどれほど無条件で深いのかを、示したのだろう。それがイエス・キリストだった。

2021-10-04 23:55:38
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

聖書はイエス・キリストを証しする書物だ。人を愛するために、神が、人のために世界を用意したのに、人は愛を捨て、神を裏切り、居直った。神は関係を回復しようと様々な方法で働きかけるが人は強情にも動かない。最後に、神はそのひとり子イエス・キリストを地に送り、人の心を神に向けようとされた。

2021-10-05 00:00:57
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

聖書に書かれたこの神について、世界について、人について、人と神の関係、その破綻、回復のための神の努力と、その最終的な解決を担ったイエス・キリストの十字架と復活の話し。この話しが自分のために起きた出来事だったと受け入れ、神との愛の信頼関係を取り戻すこと。これが自分にとっての救いだ。

2021-10-05 00:31:19
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストについてのこの話し、知らせは、悪い話しではない。悪いことはあるし、あったし、これからも起きるのだが、それでも希望を捨てるほどではない。神との信頼関係は取り戻せること。人が人を愛すること、敵だとしても愛することを諦めなくても良いのだと、信じる根拠になる良い知らせだ。

2021-10-05 00:39:14
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストについてのこの良い知らせは、人生で地獄を味わう人の、目に見える世界を一変させ、悪を負かし善が勝たせ、考え方を呪いから祝福に逆転させ、生き方すら後ろ向きから前向きに転換し、天国で活かす力を持つ。キリスト教ではこの知らせを戦勝報、福音と呼ぶ。闇は光に打ち勝たなかった。

2021-10-05 10:31:33
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人生に絶望し先の見えない暗闇の中を歩む全ての人にとって、イエス・キリストは輝く希望の光だ。自分はイエス・キリストを知り、その十字架の死と復活によって救われ、未だに不完全なところが大いに残っているにせよ、自分も、世界も、人も、未来を諦めて生きる必要はないと信じ、神と共に生きている。

2021-10-05 10:32:10

これを書いた人:キリスト教、プロテスタント、福音派の信者で、キリスト教のニュースサイト、クリスチャントゥデイの編集長。

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