南泰山先生と歴史談義(2)〜日本武尊編

南泰山先生(@Pekinno_okayu)を中心にしたtwitterでのやりとりがあまりにすばらしかったのでまとめました。 南泰山先生と歴史談義(1)~(8)へのリンクのリストはこちら。 https://togetter.com/li/1787131
16
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 さくらさんが書いてた >最初戦闘が縄文人と弥生人で起こっ >ていたが静岡の南北の縦のラインの辺 …これ、私はそのNHKの番組の内容は全く知りませんが、1980年代末に故・佐原真さんが発表した仮説、<遠賀川式文化圏>そのものに見えます。図は『大系日本の歴史①』から。(続く) pic.twitter.com/t76rjkQM9G

2021-06-28 23:41:30
拡大
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)つまり、弥生時代初期(前5~2世紀頃)に弥生文化圏は一気に北九州から近畿まで面的に広がる。しかし、木曽三川の辺りを境界として、それ以東は「点状」にしか分布しなくなる。つまり、縄文時代からの伝統が強く残る社会に跳ね返される。(続く)

2021-06-28 23:54:00
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)私も日本古代史の専門家じゃないので最新の説は不案内ですが、少なくとも弥生前期の東日本には、弥生遺跡が点状にしか分布しない、という理解は今も同じと聞きます。川上教授の言われた登呂遺跡は、中期以降、弥生文化圏がやっと面的に東に押し出していく、(続く)

2021-06-29 00:01:46
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)その時期に形成されている筈です。 木曽三川が初期弥生文化圏の東端という事実は、歴史学から見ますと非常に面白い。大和朝廷の東方管制基地だった熱田神宮はまさにこの地に築かれています。平安時代の貴族にとっては、不破関と鈴鹿関の向こうは異世界だった(続く)

2021-06-29 00:10:23
Koichi Kawakami, 川上浩一 @koichi_kawakami

@Pekinno_okayu @toshiki_nakaya @sakurani2951 >平安時代の貴族にとっては、不破関と鈴鹿関の向こうは異世界 日本武尊の東征の話はありますよね? また神社は。アマテラス系の神社が大化の改新以前も東海、関東に築かれていますよね?

2021-06-29 02:02:54
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 人文科学が正確に理解できる理系研究者、しかも天下の東大の名物教授と議論できるとは、楽しい限りです!鋭い質問、ありがとうございます。 …これは、資料を準備して丁寧にお答えした方がよさそうですね。先に大学の仕事を処理し、落ち着いて返信します。少々お待ち下さい。

2021-06-29 11:18:28
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 では再開します。 日本武尊の東征や、東国の神社について申し上げる前に、古代の王朝の社会構造について説明したいと思います。 私が比較的理解しているのは、紀元前の中国の社会なのですが、これについては今回ツイートする図をご覧頂きたいと思います。(続く)

2021-06-29 15:35:57
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)この図の典拠ですが、中国社会科学院の Xu Hong 教授、それからカリフォルニア大学バークレー校の 故・D. Keightley教授の著作などです。 強調したい点はただ一つ。当時の社会は現在の国家概念と全く違うのです。今から1800年くらい前に誕生した最初の中華王朝は(続く) pic.twitter.com/jbpXbYn6j8

2021-06-29 15:37:59
拡大
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)(夏殷周)、始皇帝の時代の中国とも全く違う。王が直接支配できた範囲は恐ろしく狭い。ある東大の有名な先生は「半径30km前後しかない」と推定していますが、あり得る話です。 たぶん幾つかの王の直轄都市(首都・副首都)があり、その外側には王朝に付属する様々な(続く)

2021-06-29 15:42:11
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)集落・都市が点状に分布しています。その外側には、名目上は王朝に従属し、実はまるっきり独立した国家・社会を営む民族がいます。このような、さまざまな部族集団が定期的に洛陽や長安の王朝本拠地に集まり、実施した当時の祭祀の規則が、後に孔子が整理した(続く)

2021-06-29 15:44:00
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)「礼」「楽」。つまり儒教になる訳です。 で、やっと日本に話題を戻しますが、後3世紀末に大阪・奈良・京都を中心に出現した大和王朝も、おおよそ、この中国の初期王朝のミニチュア版のような特徴を持っていたと考えられます。つまり安定して統治できる「畿内」は(続く)

2021-06-29 15:46:36
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)凡そ現在の近畿地方。そして「神道」という宗教を利用し、遠隔地の諸侯を形式的に服属させて租税をとりたてる。祭祀に参加しない場合は遠征軍を送っておさえつける、という手法です。 以下は私の空想なのですが、この「畿内」の東の外側に、各地の有力豪族が反乱を(続く)

2021-06-29 15:48:58
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)起こさぬよう監視のために造られた、いわば「総督府」の役目を果たしたのが伊勢神宮と熱田神宮。そして西側の総督府が出雲大社… こう考えると、いろいろ関連問題が理解し易いと思います。だからこそ別格の扱いとなり、三種の神器が収められているのかと。(続く) pic.twitter.com/dtTKsst71j

2021-06-29 15:51:40
拡大
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)川上教授が言われたように、木曽三川より東、そして西の中国地方でも、大化の改新以前に多くの神社が建造されています。ですがこれらの施設は必ずしも大和王朝の直轄地であった事を示すのではない、と思います。むしろ畿外の、事実上は独立国の状態だった各地の豪族(続く)

2021-06-29 15:55:29
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)が、大和王朝への服属を政治的にアピールする為に積極的に神社を建て、時々畿内から視察にくる役人を接待する時にこれらの神社を使ったのではないか、と私は想像します。あるいは、自国の領土の一部を「神社に寄進」という形で大和王朝に差し出したのでしょう。(続く)

2021-06-29 16:00:29
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)このへんは、日本史専門の方々はもっと理論的・具体的に話してくれるはずですが、「大化の改新以前の日本は豪族連合国家だった」という点は同じはずです。 最後に、やっと日本武尊の話です。大和王朝成立の初期には、九州・東海・関東各地の豪族を、大和朝廷に出仕し(続く)

2021-06-29 16:02:32
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)まとめあげられ、日本武尊伝説として成立したと考えられます。ですので日本武尊の話は、決して始皇帝の中華統一のようなストーリーと同じではなく、大和朝廷を中心とする緩やかな国家群の成立期の神話だと理解されれば、誤解が避けられると私は思います。(続く) pic.twitter.com/ILxwP35G6Z

2021-06-29 16:07:15
拡大
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)て神道の儀式に参加させようとしても上手くいかず、懐柔に失敗する例がたくさんあったでしょう。そのようなときは已むを得ません、遠征軍を出して屈服させます。あるいは刺客を放って相手の豪族を暗殺する。このような話が百年以上をかけて徐々に一人の英雄の物語に(続く)

2021-06-29 16:04:32
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 (承前)…うーん。しかし我ながら文章が長すぎました。文才が無いですね(苦笑)。ひとまずお詫びをして、終わらせることとします。

2021-06-29 16:09:42
メイサム @agDO58DCaymYppw

@Pekinno_okayu @koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 軍事を背景にした祭祀、という理解でよろしいんでしょうか?そうするとアマテラスの放浪(?)の謎にも取っ掛かりが見えてくると思いました。 それにしても本当に面白いです。ありがとうございます。

2021-07-02 20:49:48
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@agDO58DCaymYppw @koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 >軍事を背景にした祭祀、という理解 …そうも言えますね。新しい時代の「王朝」が時代を席巻する時、似たような現象が多いような印象があります。キリスト教をバックにしたカール大帝即位は、「ヨーロッパ」をこの世に誕生させました。イスラム教を奉じるアラブの民は、(続く)

2021-07-03 00:06:59
南泰山@アジアの歴史が好き @Pekinno_okayu

@agDO58DCaymYppw @koichi_kawakami @toshiki_nakaya @sakurani2951 現在まで1400年続くイスラム文明圏を建設。仏教の守護者を自ら任じたアショーカ王はインド統一を果たして、マウリヤ朝に最盛時をもたらし、インド古典美術は黄金時代に突き進む。 …こうして見ますと、日本の神道の発展過程は、それほど奇妙な例ではない気がします。

2021-07-03 00:21:20