会津藩士 一柳幾馬について

別件で調べていたところ名前を見つけて検索したら思いもよらぬ行動力を見せられて気になったのだけども、全然情報がないのでとりあえずまとめておく。
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銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

会津藩士の一柳幾馬という人がとても面白いので調べ始めたが、頑張っても文久3年頃の京都から明治2年の函館からの引き上げくらいしか足取りが掴めない。

2021-10-29 23:05:24
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

昨日投稿した一柳幾馬のツイートが検索できないのでもうツイッターの検索は信頼できんなという気持ちになった。

2021-10-30 23:29:51
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

geolog.mydns.jp/www.geocities.… ここに詳しいが一柳幾馬は会津藩士であり、鳥羽伏見の戦いに参加していたらしく、負傷者を大阪から搬送した後、江戸に向かって会津藩の婦女を会津へ送る手助けをし、そのあと近藤庫三郎が船長を務める順動丸で品川の砲台を函館経由で新潟に運んでいる。

2021-10-30 23:33:18
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

4月11日に新潟着、この後は会津戦争に向かったとなっていて、会津戊辰戦史では玄武隊を率いたという記録や、降伏後は米沢藩に人質に向かった(8月)という記録がある。一方、北越戦争の記録では5月24日の寺泊沖海戦で順動丸に載っていた記録もある(艦長となっているケースも)

2021-10-30 23:35:54
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

で、このあと同年10月に一柳幾馬は突然意外なところに登場してくる。フランスから引き揚げてきた上海の途上にいた徳川昭武の元に向かっていて、渋沢篤太夫(栄一)に日本の現状を説明したという。どうしてここに来れたのかわからんがすごい行動力だ。

2021-10-30 23:39:19
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

同姓同名かとも思ったんだけど、辻忠貞が記した「艱難実録」(幕末~明治の松山藩主板倉勝静に同道して動向を記した記録)で、一柳幾馬がフランス人と話せて上海に行ったこともある、と書いてあるのでどうも本人らしい。

2021-10-30 23:42:49
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

話が前後したが、艱難実録では明治2年の正月、蝦夷共和国になった箱館府に一柳幾馬がやってきていろいろ世話をしたとか、最終的に戦地になった函館から板倉勝静や小笠原長行を送り返す際に一柳が奔走し(4月)、浦賀まで同道した(5月)という話が書かれている。

2021-10-30 23:45:31
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

艱難実録では、板倉勝静や小笠原長行らを上海まで送る手筈であったという話もあって、1年少しの間に大阪→江戸→函館→新潟→会津→上海→函館→江戸というすごい移動をしている事になるっぽい。そしてこの明治2年から後の動向がさっぱり分からない。名前を変えた可能性がありそうなんだけど。

2021-10-30 23:47:20
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

あと、足取りとしては会津藩庁記録第1巻(万延元年(文久4年)の記録)に、「一柳幾馬義京都常詰御刀番被仰付候」とあって、この頃から京都で活動していた? ということで良いのだろうか。

2021-10-30 23:51:42
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

というかちょっと会津藩庁記録読み直したらちょこちょこ名前が出てくるな……

2021-10-30 23:57:45
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

こんなダイナミックな行動をしている人なのにネット上では驚くほど名前が出てこない。論文の類でも全然ひっかからないので、本当に注目を浴びていないのだろうか?

2021-10-31 00:00:37
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

会津藩士 一柳幾馬について - Togetter togetter.com/li/1795723 あれからとりあえずネットで見つかった限りの一柳幾馬についての追加情報というかまとめというか。

2021-11-05 23:17:21
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

会津藩庁記録: 密京江徃返扣 - 第 1 巻 books.google.co.jp/books?id=iLWqr… がGooglebooksで読めるのだが、元治元年に会津藩が京都とやりとりをしていた連絡のまとめのなかに、守護職を務めていた松平容保に従っていた田中土佐(玄清)らに西郷文吾、横山小助らから送られた書簡の中に幾馬の名が見える。

2021-11-05 23:26:33
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

50~60ページのあたりに何回か名前が出てくる。内容はちゃんと読めてないんだけど、どうも会津にいた一柳幾馬が、京都に追加で送る人材の要請に対して役に立ちたいと申し出て、京都常詰御刀番となることを命じられた、というような経緯のように思われる。

2021-11-05 23:30:47
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

やりとりに関しては元治元年1月から2月の頃の書簡の往復らしい。

2021-11-05 23:31:32
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

で、こちらの大河ドラマ八重の桜の感想ブログにおいて、米代4ノ丁の山本八重の家の道の向かいに一柳幾馬(250石)が見えるとのことなので、 kazenoshin.exblog.jp/17502444/

2021-11-05 23:40:56
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

元になった地図であろう、 戊辰若松城下明細図 / 加藤長四郎 編輯 wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html… で確認。PDF5ページ、山本覚馬の向かいに確かに一柳幾馬の邸宅がある。地図自体は戊辰とタイトルにあるように、慶応4年のものと思われるので、その時にできていたものということだろう。

2021-11-05 23:44:07
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

元の話では借り受けられたのは「一柳某」の屋敷であるので、1844年当時にこの屋敷が幾馬のものだったのか、先代や関係者のものだったかは定かではない。

2021-11-05 23:45:00
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

次、一柳幾馬が鳥羽伏見の戦いの負傷者を大阪に送った話や、江戸に戻ってきて会津に婦女子を送り出すのを監督した話(2月18日から3月1日)、池上岩次郎、神尾鉄之丞らと共に品川砲台の砲台を函館経由で新潟へ送った話は、会津戊辰戦争史(google.co.jp/books/edition/…)が出典。

2021-11-05 23:50:11
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

この砲台の輸送の話は、順動丸艦長であった近藤庫三郎の手紙などから、3/13出発(江戸城無血開城の直前)、4月11日新潟着であったことが分かっている。

2021-11-05 23:51:08
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

一柳幾馬は会津戦争に玄武隊寄合として参加していることが分かっているのだが、そこに登場するまで結構長い期間を新潟周辺で行動していたらしい。慶応4年は4月から閏4月を挟んで5月24日の寺泊沖海戦では会津藩士雑賀(鈴木)孫六郎以下150人と順動丸に乗船し、爆発自沈する船から脱出している。

2021-11-05 23:54:39
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

寺泊沖海戦の史料はけっこう曖昧な情報のものが多いんだけども、新潟県史の史料に翌26日(順動丸自沈後の5/26?)に一柳幾馬が小隊を率いていたらしき記述がみられる。 google.com/search?q=%E4%B…

2021-11-05 23:57:51
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

でもって、米沢藩戊辰文書において、新潟の防備に当たっていた米沢藩の色部久長に向けて送った一柳幾馬の書簡がある。 books.google.co.jp/books?id=__0ux… 内容は同時動向を注視されていた新発田藩に関する報告。日付が6月7日となっていて、まさに長岡周辺の動静を決める一触即発の時期。

2021-11-06 00:00:10
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

会津戊辰戦史では、8月頃の軍議や9月10日(?)に上田八郎右衛門と共に米沢藩に赴いた話が触れられているが、防長回天史第6巻ではその間9/2に、上田伝治と共に大鳥圭介に面会して話を聞いたという話がある。 books.google.co.jp/books?id=Cf8Oh…

2021-11-06 00:06:12
銅折葉@3/31(日)東方名華祭E-03 @domioriha

このあと一柳幾馬は、ヘンリー・スネルの仲介を経て長野桂次郎らと共に塩釜港からフランス船で上海に向かう。目的は奥羽側に海外の助力を得るためだった。一柳幾馬自身の動向としてこれを記した文書はないのだが、

2021-11-06 00:10:38
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