【事実上の徴兵制度】についての後日談(その2)

11
加藤AZUKI @azukiglg

視点・立脚点が違えばそれぞれ正義は違ってきて、それぞれの正義はそれぞれの立場からなら全て正しい。その「前提を共有しない正義」の対立をどのように前提から融合させるか、対立項を恨みすら残させないほどに殱滅するか、優劣順位を決めて承伏させるか、というのが全ての人類の営みなのだなあ。

2011-08-27 10:13:32
加藤AZUKI @azukiglg

「地上の楽園」が当時は地上の楽園で、当時得られた情報からであれば、それは正しい判断だった。が、「後から違うデータが出てきた」ことで、当時得られた情報が不十分だったことが判明した。後からの追加データによる判断は正しいが、実は当初の判断も正しい。

2011-08-27 10:45:14
加藤AZUKI @azukiglg

正しい、には「正確である」と「正当/正義である」のニュアンスがあって、これはしばしば混同される。データに基づいた判断は「正確」である。少なくとも検証対象があり、他に検証する素材がなければその数字を検証することで、数字から得られるデータの「正確さ」は検証できる。正当性とは違う。

2011-08-27 10:46:21
加藤AZUKI @azukiglg

一方で「正当性/正義」という正しさは、立脚点や前提の変容によって変わる。例えば、民主党政権は2009年の夏の時点では【正しい判断】だと多くの人が信じてそれを支持した。今、多くの人は民主党政権を選んだことは【正しくない判断】だった、と思っている。

2011-08-27 10:47:36
加藤AZUKI @azukiglg

が、当時得られた(与えられた)情報で、当時選ばれた判断としては正しかった。2年経った我々は当時の判断を「誤りであった」と批判することができるのは、その後に加えられた新しい検証データを、判断材料に加えることができるようになり、当時よりは【正確】な判断が下せるようになった結果。

2011-08-27 10:48:54
加藤AZUKI @azukiglg

人類の歴史は判断の積み重ねであり、人はそれぞれの状況下で常に「自分に与えられた能力と権限、リソースの中で選べる最善」を選ぶ。それは「可能な限り正確で、最終的には正義と信じて」ということになる。だから、「当時の判断」としてはそれは正しい。キリストが磔刑にされたこともそこに含まれる。

2011-08-27 10:50:25
加藤AZUKI @azukiglg

「データを盲信してはならない」は、「データが不正確かもしれないから、より正確なデータが揃うまで判断を保留すべきである」という意味でなら正しい。一方、データが揃わないうちにそれを言うのは判断保留=結論を出す作業からのドロップアウトなので、以後の発言権の留保にも繋がる気はする。

2011-08-27 10:51:44
加藤AZUKI @azukiglg

「そのデータが不正確かもしれない」と検証元の正確性を疑問とするなら、「なぜならより正確なデータがある」「同じ条件で出された違うデータがある」「違う条件なのに同じ結果になるデータがある」など、対抗できるデータの提示が求められる。

2011-08-27 10:52:55
加藤AZUKI @azukiglg

データの正確さは、「誰がそれを検証しても同じ結論になる」という意味に繋がる。観察者の能力や指向性、ポジションによって結果が違うのであれば、それは「正義」による差違かもしれないが「正確」ではない。

2011-08-27 10:54:59
加藤AZUKI @azukiglg

後になればなるほど正確なデータが用意できる(後攻は有利)のだから、反論者はより正確性を期すデータの提示が求められる。反○○○論等に出てくる「代案出せ」や「検証値を出せ」は、持論で圧倒するために行われる反論ではなくて、前提を参加者全員で共有するための提案であると思う。

2011-08-27 10:55:59
加藤AZUKI @azukiglg

後攻、後になってから、後世の歴史家wはだいたい正しい。人が後悔するときは、先走って下した判断より正確だ。なぜなら、より多くの正確なデータを共有できたからで、全員が納得するためには「より多くの正確なデータの共有」が必要になる。

2011-08-27 10:56:57
加藤AZUKI @azukiglg

その意味で、データ主義の人を説得するのは観念的正義論の人を説得するより容易い。納得いく、根拠が明確で、第三者が検証できる(追試が可能で、誰がやっても同じになる)データを提示すればよい。正義について哲学的に同意を求めるよりも強い効果をもたらす。

2011-08-27 10:58:11
加藤AZUKI @azukiglg

それが十分に検証可能で納得できるデータであれば、データ主義の人は前言を翻すことに躊躇はない。データとデータが衝突する、どちらにも信頼がおけない、データの前提条件が異なる、となってくると、そこでまた信仰問題に発展する。「自分の正義のために都合のいいデータ」を求める争いになる。

2011-08-27 10:59:33
加藤AZUKI @azukiglg

その場合も、「データの検証方法、条件は【正確】か?」「目的に対して適切か?」を検証できる。これも、「誰が検証しても同じ結果が得られる」のであれば、データ主義の人は主張を曲げることを厭わない。それをしないで「観念的な正義」を旗印にデータ主義の人に挑んでも説得はできない。

2011-08-27 11:00:56
加藤AZUKI @azukiglg

なので、その場合の最もよい行動は「挑まない」だと思う。また、データ主義の議論=正確性を追求する議論は、議論の参加者全員が同じ結論を目指しているというより、「同じ前提の共有」「前提の正確性の共有」を目指している側面がある。前提の正確性が共有できると、結論は同じになる。

2011-08-27 11:02:24
加藤AZUKI @azukiglg

しばしば引き合いに出る普天間基地移設問題は、前提と必要条件の正確な理解を推し進めた結果、現任者(民主)は前任者(自民)とほぼ同じ結論に至った上に、時間切れで自民が問題提起した時代より以前に戻ってしまった。前提の正確性を共有すると同じ結論になる、の好例。

2011-08-27 11:03:53
加藤AZUKI @azukiglg

反原発議論も、その意義や価値や恩恵が自分達の視界に入らない、入っても理解されにくい段階では、忌避感情から生まれた正義感による反原発信仰が力を持つ。が、喪失による不便、代替手段の実現性などについての【正確】な情報が出始めると、旗色が変わってくる。

2011-08-27 11:05:14
加藤AZUKI @azukiglg

「自分の結論のために都合のいい情報を取捨選択する」という行為が間違いなのか、というと僕はそうとも思わない。それは【不正確だが、政治的には正しい】となる。

2011-08-27 11:05:59
加藤AZUKI @azukiglg

「正確な議論」に対抗する唯一の方法は「政治的な手法」であって、これは正確さを武器にしない。「不正確であっても正義である」と言えば、正確さに自信がない人はこれに靡く。人は、正確であることより、正義の側に立っていることのほうに安心感を抱くためだ。

2011-08-27 11:07:38
加藤AZUKI @azukiglg

政治的な正義は「多数意見=常識である」ということであり、これは政治的に正しい。民主主義の世界では、「多数意見が採用される」仕組みになっているため、その認識が正確かどうかは問われない。故に、正確vs正義の戦いは、「データを競う正確」と「同意者を募る正義」の戦いとなる。

2011-08-27 11:09:30
加藤AZUKI @azukiglg

同意者を募った結果、多数を占めることができれば、「正義」は「正確」を圧倒できる。そしてこれは、政治的に正しい。「正義」に賛同した人々は愚かなのかといえば、愚かとは言えない。その時点で得られる情報が少なく、不正確だったとしても「その時点での最善の判断を下した」わけだし。

2011-08-27 11:10:55
加藤AZUKI @azukiglg

その判断の後に、「正確」が正しかったことが裏付けられていったり、また「正確」なはずのデータが別のデータによって覆されることもある。別のデータを用意した上で覆される「正確」は、「データの不正確を正すことで、より正確になった」と言える。

2011-08-27 11:12:06
加藤AZUKI @azukiglg

「データの不正確」を、対抗するデータを用意せずに「正義」で覆し、それが結果的に正しかった場合は、【運が良かっただけ】に過ぎない。そして、運の良さを「データを検証する正確性を求めること」の否定に使ってしまうのは正しくない。この場合の正しくないは「不正義、不正確」どちらでも通じる。

2011-08-27 11:13:24
加藤AZUKI @azukiglg

データを検証することを軽視する風潮に乗った「精神論の先行」や「正義の暴走」を我々の歴史には幾らも見つけることができる。そしてそれらは、【その時点では政治的に正しかった】。ドイツ人がヒトラーを選んだことすら、当時の多数のドイツ人にとっては正義であって、政治的には正しかった。

2011-08-27 11:15:08
加藤AZUKI @azukiglg

「データを検証することに重点を置く」のは、そうした「政治的な正義」への傾倒、信仰へのカウンターであると思う。繰り返すが、データ主義として「正確」を競うのも政治的手法として「正義」を競うのも、どちらも間違っているとは思わない。それぞれの立脚点においては正しい。

2011-08-27 11:16:31
1 ・・ 7 次へ