- henohen54465820
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ほほぅ >平安文学を代表する「源氏物語」「枕草子」の舞台になった内裏の後宮建物跡が、京都市埋蔵文化財研究所が上京区で行った発掘調査で見つかっていたことが分かった。建物跡や溝跡は中宮らが暮らした登華殿と弘徽殿に関わるとみられ、平安時代の内裏殿舎遺構が見つかるのは初めて twitter.com/kyoto_np/statu…
2021-11-08 17:15:27「源氏物語」「枕草子」舞台の建物跡 京都の発掘調査で初確認 | 京都新聞 kyoto-np.co.jp/articles/-/672… ヒェーーーー!ガチの聖地きたーーー!!登華殿、定子様の御座所です!!!しかも弘徽殿、歴代の中宮、皇后が大体住んでいたところ。ガチの格式が高い正妻のお住まい。わわわわわ。
2021-11-08 19:57:37というか1000年前の掘立柱の痕跡が残るって……??!何度も大火で消失しているし移動もたくさんあったけれどこれは胸熱。
2021-11-08 19:59:40弘徽殿とは後宮図を見て頂くとわかるのですが、天皇のプライベートゾーンから、1番近くて抜きん出て大きい殿舎です。 要するに「いつでも通いやすい」わけです。しかも多くの女房を抱えるによい広さ。お気に入りの女に住まわせないわけがない。 弘徽殿を賜る、女御は将来の中宮と目されるわけです。
2021-11-08 20:03:52だから、源氏物語で「弘徽殿女御」と呼ばれた女が、息子が帝になりながら、自分は中宮にのぼれなかったことの衝撃、悔しさ、も良く伝わるわけです。 帝の御母、になるので「弘徽殿大后」(皇太后)などと呼ばれますが後からやってきた藤壺宮によって中宮とはなれなかった。この恥ずかしさ、くやしさ。
2021-11-08 20:07:18もちろん、藤壺宮は「藤壺」と呼ばれる殿舎を賜った「宮」なのですが、彼女は生まれながらの宮、です。先帝の内親王なので「宮」として後宮に入るわけですから、身位として、初めっから弘徽殿女御とは立場が違います。しかも入る理由が愛した桐壺更衣とそっくりだから、で、桐壺帝が執心。悔しいよね。
2021-11-08 20:14:43訂正、1000年前どころじゃなかった。 「794年の遷都当初と見られる建物穴」 ということは桓武天皇朝やないかーーー なくようぐいす平安京やないかー!!!
2021-11-08 20:34:50ということはおそらく考古学者たちが開く研究会や発掘所での公開解説会もあるはずだけど行けねえな……くそう。どうにかして遺構として保存してガラス張りにしてくれ……(他力本願)
2021-11-08 20:41:01これはですね、1000年クラスの大ニュースなんですよ。枕草子や、源氏物語が生まれた一条天皇朝どころか、歴代の皇后や中宮たちが笑って暮らしていたところ、夫の天皇たちのプライベートゾーン、が残っていた、ということなんですよ!!!!!!
2021-11-08 20:45:19まあ、大火などで廷臣たちの家などを借りて里内裏として使う例もありますが、何と言ったって、年代測定法で794年ですよ????国風文化も完全に広まっていないときでもあります。
2021-11-08 20:46:38古語で「宮す所」。 中宮や皇后の「宮」が「住まいする所」という意味。 宮、というのは身位だけではなくその人が住まいをする殿舎、つまり「宮」を指します。ひっくるめて、たいへんな高貴な帝の正妻格のひとが住んでいるところ、と書くことがある。 宮す所が、見つかりました。
2021-11-08 20:54:13ながくフォローいただいた方はよくご存知だと思うのですが、私の最推しが誰あろう定子様、その人なのです。 今日は晩酌します!!!!!!!乾杯!
2021-11-08 21:25:51(まあわたしの出身地は奈良で、もっと古い天平期の遺跡とかも掘ればあるんですけど、考古学者さんや地誌をあたった専門家さんや、いろんなひとの長年の比定で行き着いたわけですから、本当にありがたいことなのですよね。何かを建てる前に必ず調査をする、古都ならではの。)
2021-11-08 21:54:351000年の都というのは人の移り変わりも建物の移り変わりも激しいなか、794年のものが残っている、ということ自体が感無量です。私たちの生きている時代は、地続きなのだなあ。
2021-11-08 22:00:17(個人的には、才能ある女房や官人、イエを背負って生きていた皇后中宮たちが笑い合っていた場所。それがグループホームというご老人方の寂しくないところになる、のはとても素晴らしいなと思います。いつの世も孤独はつらいもの。 ちゃんと埋め戻して破壊していないようだから、いつかまた。)
2021-11-09 12:44:40