「日本では古代の道路ほどまっすぐで、時代が下がるにつれ曲がりくねる」という話。
日本古代の道路が整然とした直線だったことは、考古学の発掘が進むまで誰も「まさか」と思ってたそうで、比べて見ると江戸時代の道路、酷い遠回りとか曲がりくねっててリアルな現実が噴き出してるんですよね。古代道路は整然さの維持にコストがかかるのでしだいに消えていきました。
2021-11-20 03:17:05都から最短経路で進む道路が各国・各郡を貫いてて、それが「東海道」とか「山陽道」だった訳です。律令制度を中国から導入した頃に、道路の作り方も導入したので、そのような厳格なものになった訳です。それが中央集権システムだった訳ですね(機能不全になってくけど)。
2021-11-20 03:20:33関連的な過去まとめ
「巫俊」さんは独自のまとめも作られています
弁天岩ライン(赤字) 古代に「条里」を設定するときに、最初に測量されたことが分かってるライン。ラインの終点(北)にあたる「弁天岩」が、式内社の宇流冨志禰神社に成長した。 pic.twitter.com/HYmt0FWo1e
2021-11-20 01:44:33この「弁天岩ライン」は条里制の研究者の論文に出てくるのですが、実際に各地に条里水田が作られた時期もしくは改修された時期(残存してた条里地形から復元できるものを指す)には、少しズレたということです。 twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 02:18:22「弁天岩ライン」(赤い線)から1町=109メートル西に平行して走ってるのが「青い線」ですが、青い線付近には平安時代後期の「斎王上路」(伊勢から帰京する斎王のために作られた道路)がありました。この青い線も理念上の線なので実際の条里とは少しズレる。 pic.twitter.com/yU4dnEphpl
2021-11-20 02:22:43実際の条里とズレてしまうのは、基準線付近にある古代道路(東海道)の右の側溝の延長線上に左の側溝があるせいで、条里を施行するか再施行するときに18メートルの東海道の幅の分をどこで消化するか間違えてしまったからだとされる。
2021-11-20 02:31:04この青い線の上に中世以前からあると見られる神社がピタリと存在してるのが怖ろしいところです。青い線は理念上のものなので、実際に施行された条里の角度は少し異なるのですが、この青い線の付近に「斎王上路」がありました。神社は上路の横に整備された。 twitter.com/fushunia/statu… pic.twitter.com/NlRl4wn6oh
2021-11-20 02:54:53これ、面白いなと思うのは、現在では「斎王上路」はわずかな部分が里道として残ってるだけで、ほとんど道路では無くなってるのに、神社は何故かその場所にずっとあって、地元の人は何も知らずに生活してたってことですね。歴史的成り立ちは必ずしも意識されては来なかったけど大切にされてた訳です。
2021-11-20 03:07:10「斎王上路」の遺構は、沢代遺跡という遺跡として確認されてて上路の側溝が出土してまして、『市史』の考古編も斎王上路の上に神社が並んでると説明してます。
2021-11-20 03:12:49伊賀上野城とかがそうですが、江戸時代の街道は街道の直線上に「統治の拠点」である天守がある城があり、城は通行妨害してるという最悪の設計になってます。城下付近では道路の方が遠慮して曲がってます。 twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 03:22:04伊賀上野城の背後には円錐形の「南宮山」があるのですが、江戸時代の浮世絵もこうした構図で描かれてて、街道の直線上に「お城」と背後の「山」が見えるという視覚上の「威儀」が重視されてたそうです。 pic.twitter.com/RqDLg3HwcH
2021-11-20 03:27:44平安時代の「斎王帰京大橋」と「斎王登大路」はオレンジ色の線上にありました。伊賀国・大和国の中間の大和高原を通る「都祁之山道」(つげのやまみち)が「斎王登大路」として再設計されたようです。「斎王帰京大橋」は大海人皇子が白鹿に導かれて川を渡った故事が伝わる「兵頭瀬」(ひよどせ)にあります twitter.com/fushunia/statu… pic.twitter.com/k1ti6f1V0I
2021-11-20 03:53:34それでも県道や郡道の真下に通ってたりして「あーこれ1300年前から同じなんだ」って感動する道もあったり(*´ω`*) twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 03:55:17斎王帰京大橋があった宇陀川の「兵頭瀬」(ひよどせ)。斎王帰京大橋の位置は、近年の条里研究によって確定しました。右(東)から左(西)に平安時代後期の斎王が大きな橋の上を渡ってました。川の流れを塞いでた岩盤がダイナマイトで爆破されたので、かつては岩盤がもっと高く、その上に橋を通してた pic.twitter.com/HnA4kOYMly
2021-11-20 04:03:06東京港区の二本榎通り(古代奥州街道~鎌倉街道下道~中原街道)もまた、概ね直線経路。 後年の宅地開発で線形の改変こそあるものの、かつての面影を残す道でもあります。 twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 04:06:58『全国方言辞典』に「ひよ:嶺、山の嶺」(上総)とあり、日本各地にある「兵越(ひよこし)峠」「兵戸(ひよと)峠」などは立体的な崖を指す「ひよ地名」だとされる。源義経の一ノ谷の戦いの説話に出てくる「鵯越」(ひよどりごえ)も同様の崖地名でした。
2021-11-20 04:08:17やはり「あえて橋を架けない」と同じで安全保障、軍事的な理由でしょうか?<江戸時代の道路遠回り多い twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 06:33:08中世以降、半独立的な地方政権ができると城郭や都市を守るため、道をこねくり回したりするのがありますね。 twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 06:37:30古代から中世初期にかけて朝廷が開発・維持した幹線道路網は、その大部分が現在の高速道路と一致すると「道路の日本史」で解説していたのを思い出す。 著者は元道路公団(ガチ twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 06:42:04あれは、とにかく田んぼや畑をさけて作られたからだと、石見銀山街道をぜんぶ現地調査された先生の本に書かれていたなあ。 大きくみると最短距離なんだけど、とにかく田んぼをさけて、山と平地の間みたいなところを通っていると。 まあ、江戸時代は米はお金みたいなものだからなあ。 twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 07:38:49明治以前の日本が中国や古代ローマみたいに馬車の利用が起きなかったり、牛車が余り発展しなかったのもこういった事も起因しているのだろうか? twitter.com/fushunia/statu…
2021-11-20 08:18:41@fushunia 戦国時代になると戦略戦術上わざと道路を曲がりくねらせる必要もでてきました。
2021-11-20 08:34:48