ハンガリー王国第1降下猟兵大隊
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降下猟兵部隊の設立
ハンガリー国防省では1936年後半からパラシュート降下して破壊工作を行う小部隊の設立を検討した。1938年5月3日、センテンドレ島で24名の特殊部隊が設立され、破壊工作の訓練後、部隊はパーパ飛行場で降下訓練を開始しており、国産のHehs社製H39Mパラシュートを最初にテストしたのはこの部隊であった。
2020-12-16 19:56:181938年7月、本格的な空挺部隊の設立が決定し、兵員の募集が開始されると当時のパラシュートはまだ黎明期であったが多くの志願者が集まり、8月にはベルタラン・アールパード大尉が指揮官となった。8月25日、ソンバトヘイに降下訓練センターが開設されれ、9月2日から最初の模擬降下訓練も開始された。
2020-12-16 20:00:14パラシュートや装備は輸入品であり、イタリアのサルバトーレ、ドイツのシュローダー、アメリカのアーバインなどのパラシュートが輸入され、輸送機はカプローニCa.101型機2機が使用された。1939年国産のHehs社製H39M型パラシュートが完成し、輸送機もサヴォイア・マルケッティSM-75が5機導入された。 pic.twitter.com/yrpqu2E7jN
2020-12-16 20:05:03サヴォイア・マルケッティSM-75はハンガリーの航空会社「MALERT」が1938年に購入した機体であったため旅客機から輸送機への改造はなかなか進まず、5機体制が揃うのは1940年5月までかかり、それまでは旧式のカプローニCa.101型機3機も引き続き使用された。
2020-12-16 20:06:001938年9月11日、ソンバトヘイで「パラシュート実験隊」が設立され、9月20日にはベルタラン大尉と7名の部下により最初のパラシュート降下が行われ成功した。1939年9月、実験隊は「降下猟兵中隊」に改編され、11月にベルタラン大尉は少佐に昇進した。
2020-12-16 20:53:16フォルティパンに従軍写真家さんの写真が追加されており、その中にハンガリー降下猟兵の極初期と思われる写真があったのでご紹介。 1939年なのでソンバトヘイ(Szombathely)に降下訓練センターが開設された当時と思われます。 fortepan.hu/hu/photos/?id=… pic.twitter.com/ZbL195tP7n
2022-10-22 23:39:01続きのパラシュートの整備風景ですが、説明文は何もないので何とも・・・ fortepan.hu/hu/photos/?id=… pic.twitter.com/BqC1Dnod7Y
2022-10-22 23:41:05ひたすらパラシュートの整備風景(笑 fortepan.hu/hu/photos/?id=… pic.twitter.com/7tPHBylxBG
2022-10-22 23:42:34基礎訓練中の志願兵たち? fortepan.hu/hu/photos/?id=… pic.twitter.com/73JyaUUWFc
2022-10-22 23:43:58できあがったパラシュート。主傘と予備傘で構成されたハンガリー国産のHehs社製H39M型パラシュートかな? fortepan.hu/hu/photos/?id=… pic.twitter.com/LcI54Wicbs
2022-10-22 23:46:49さらに整備風景だが、手前の道具はなに? 折りたたむ際の整備キット? fortepan.hu/hu/photos/?id=… pic.twitter.com/jL7Mmdp9zQ
2022-10-22 23:49:301940年には降下訓練センターはパーパ飛行場に移転し「降下学校」へと拡大された。1940年8月には2個降下猟兵中隊が追加され、8月末には3個中隊の「第1降下猟兵大隊」へと拡大された。大隊の兵力は将校30名、下士官120名、兵250名合計410名となり、11月1日には空軍に移管された。 pic.twitter.com/AMMZOQ4BmX
2020-12-16 20:54:30サヴォイア・マルケッティSM.75から降下し地上で展開するハンガリー空挺部隊。ユーゴ侵攻時には敵地の橋奪取に貢献するも、その後は小規模降下任務に限られた。以降、歩兵としてカルパチアからブダペスト、オーストリアまで大損害を蒙りながら終戦まで戦い抜いた。 youtube.com/watch?v=pr1GUG… pic.twitter.com/USElEbfMdF
2020-11-25 20:27:53ハンガリー降下猟兵の訓練動画でおそらく1942年秋の撮影か? パラシュートの整備風景や機内からの撮影もめずらしい。 輸送機はイタリア製のカプローニCa.101型機2機 パラシュートは国産のHehs社製H39M型で、ドイツ式と違い2本のラインでぶら下がっているのがわかる。 filmhiradokonline.hu/watch.php?id=4…
2021-04-03 14:59:071943年1月発表の「ハンガリー世界のニュース985号」(MAGYARVILÁGHÍRADÓ 985。)なので1942年秋「以前」であることは確かだが、旧式のカプローニCa.101型機であるところを見ると、遅くとも40年~41年頃かそれ以前の撮影かもしれない。
2021-04-03 15:47:12【 #ハンガリー軍bot 】空挺部隊 ejtőernyősök 再軍備を宣言した1938年,ハンガリー空軍内に創設.1941年にユーゴ侵攻に参加.1944年にカルパチア防衛に当たった後,残存兵員は陸空軍混成のセント・ラースロー歩兵師団へと改編された. mltr.ganriki.net/faq08a12m.html… pic.twitter.com/hVowhstVQj
2021-12-29 18:18:51ユーゴスラヴィアでの実戦降下
1941年4月6日、ドイツ軍はユーゴスラヴィア王国を攻撃し、4月11日にはハンガリー軍もバチカ地方に進撃し、大隊もハンガリー第3軍予備となり警戒態勢に入った。ユーゴスラヴィア軍は国境地帯からフランツ・ヨーゼフ運河の防衛線へと後退し、降下猟兵大隊はこの防衛線の背後に降下することとなった。
2020-12-16 21:01:421941年4月初めの時点でパーパ(Pápa)飛行場は積雪のためにSM75輸送機の発着には使用できなかった。このため約50㎞南東のベスプレーム近くのjutasi飛行場が使用され、降下猟兵は4月12日の正午までには移動を完了し、ここでベルタラン少佐は兵士たちに初めて任務の内容を説明した。
2020-12-16 21:02:59攻撃目標はスルボブラン(Srbobran=ハンガリー名Szenttamas)とヴルバス(Verbasz)に架かる2か所の橋で、橋が爆破されるのを防ぎ快速軍団が到着するまで橋を確保することであった。さらに第2陣が夜の間に準備を行い、増援として13日の夜明けに降下する計画であった。
2020-12-16 21:04:13大隊はSM75輸送機5機により104名が降下する計画であったが、1機は修理が必要となり4機で実施された。4月12日午後3時45分、第3軍司令部から最終的な出撃命令が届き、最終的な説明と検査後、午後4時45分に輸送機へと搭乗した。1号機(E101)はベルタラン少佐の他24名が乗り込んだ。
2020-12-16 21:40:37輸送機の飛行時間はわずか40~45分、飛行距離は片道約220キロであったため燃料は半分ほどにして離陸重量が軽減された。2号機(E103)ZoltánKiss中尉が指揮する24名、。3号機(E102)はTibor Néma中尉が指揮する25名、4号機(E104)はフェレンツ・ヴァンドール軍医が指揮する救護班が輸送された。 pic.twitter.com/0HI5tmS9He
2020-12-16 21:42:10