- osugi_akira
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昨日は #水曜読書会 で #自由は進化する の最終章を読んでいた。「自由意志」という概念が必要とされるのは「責任」の有無をどう判定するか?という場面だけだと参加者から話題に出た。確かにその通りで、実のところ責任分配のために自由意志概念は生み出されたと考えてもいいんじゃないか?
2022-01-27 07:55:29進化論的な知見や脳科学的な知見が集まり、決定論的世界観が人間の意思決定の過程にも導入されていくと、自由意志概念が揺らいで社会が崩壊するのではないかと心配する人が出てくる。でも、それは大丈夫。なぜならば… というのが、デネットが主張する話の流れである。
2022-01-27 07:58:17たとえば、ある人が他の人と口論になり、かっとなって衝動的に相手を殴る。これは暴行罪になるだろう。 しかし、これが罪となるには、その人が責任を負える存在でなければならない。殴らないことも選べるが、あえて自由意志による自律的な選択として相手を殴った。 だから、それは罪となる。
2022-01-27 08:04:02もしも、仮に殴った人が完全に何かの魔法にかけられており、意識が全くない中でロボットのように操作をされて誰かを殴らされたという話であれば、「殴ったのはお前の罪だ!」とは言いにくくなるだろう。
2022-01-27 08:08:06ここまで極端な話ではなくとも、人は洗脳や教育の影響を受ける。病気による心身の変調も判断に影響を与える。 口論になったからといって相手を殴るのはまともな人間の判断ではない。 まともな判断をしなかったということは、そもそもまともな精神状態ではないとも考えられる。
2022-01-27 08:12:39口論から人を殴りつける人は、まともな判断ができるのにあえてしなかった犯罪者なのか? そもそもまともな判断のできない病人だったのか? 前者は刑務所へ、後者は病院に入れられる。
2022-01-27 08:14:06近年は従来は罪と罰の枠で判断されていたものがさまざまな形で「医療化」され治療対象となりつつある。 発達障害周りにもそのような議論がたくさんある。 そう!ぼくが遅刻してしまうのも、ぼくが邪悪で怠惰な罪人だからではなくて、ぼくのADHDによって仕方なく引き起こされるものなのです!
2022-01-27 08:17:52こんなことがどこまでも進行し、個人の心(判断)の範囲はドンドンと狭められ、心の外側の原因によるものとされていけば、全ての犯罪は病気扱いの治療対象となり、罪と罰の枠から外れることになる。
2022-01-27 08:21:40自然科学的知見の蓄積が自由意志概念解体とそれによる社会の崩壊に繋がるのではないかという不安はこのようなものだ。 でもデネットはそんなことにはならない。大丈夫、という。 なぜか?
2022-01-27 08:22:57「十分に責任を負えるまともな一般人」と周囲から認められることは、「責任を負う能力のない病人」と扱われるよりもずっと多くの社会的な利益があるからだ、というのがデネットの主張になる。 これだけだとなんのことかピンとこない人もいるだろうから、もう少し具体例をあげておこう。
2022-01-27 08:27:05たとえば、ぼくが他人との待ち合わせや約束の時刻を必ず忘れて毎回すっぽかすとする。ADHDのためだ。仕方がない。罪人ではないが病人とか障害者の枠に自ら入ることにする。
2022-01-27 08:31:10周囲の人間はぼくとどのように関わるようになるかといえば、「めんたねと約束をしても必ず忘れて反故にするから、めんたねを相手に約束をするのは無意味だ。約束が必要となる活動からは排除しておこう」となる。 ぼくは約束を守る責任を負わずに済むかもしれないが、各種活動に参加する自由も失われる
2022-01-27 08:33:19「この人はまともな判断ができ、自分の言動に責任を負える人間である」 そう周囲の人間から認識されることでさまざまなチャンス、自由が得られる。 仮に責任を負うリスクを引き受けてもそれ以上のメリットがあれば、人は喜んで責任を引き受けるはずだ。
2022-01-27 08:35:55だから、デネットは、社会が機能するために必要なのは科学的知見の蓄積を止めることではなく、責任を負った結果のメリットが大きくなるように社会を設計し、運用していくことだと考える。 これはぼくも完全に同意である。
2022-01-27 08:37:41ぼくは自由意志概念よりも先に責任概念があると思っている。責任概念を軸に社会、コミュニティはまわる。責任の分配がうまく機能さえすれば別に自由意志概念などどうでもいい気すらしてくる。
2022-01-27 08:41:21責任を負う能力も先にそれがあるのではなく、責任を課されてから初めて養われるものだとぼくは考えている。 だから、まずは責任を課し、それに相応しい振る舞いをしている限りは、それに対応した各種自由や権利を与える。 まだその責任を負う能力がない人間には、それに対応した自由や権利を制限する
2022-01-27 08:45:17主に親が子に行う教育というのはそういうものだと思っている。 子どもの発達段階に合わせて適度な責任を負うチャンスとそれに伴う自由や権利を与える。 そして、きちんと子どもの言動に責任を取らせていく。 まだそれが無理なようであれば自由や権利を一時的に制限する。
2022-01-27 08:48:15すると教育の仕方は「あなたが自分の責任を果たす限り、それに見合った自由や権利、チャンスを私や周囲の人間は与えるよ。 あなたが無責任な行動を繰り返すのであれば、私や周囲の人間はあなたをそのような存在と認識し、あなたには一人前の自由や権利、チャンスを与えないでしょう」 となる。
2022-01-27 08:54:31実はこの責任を負う能力というのは、子どもだけではなくて、大人になっても十分に引き出されて伸ばされていない人がたくさんいる。 何かあるとすぐに自らが被害者ポジションに入ってしまい、自分の責任について考えられなくなってしまう人はその典型だ。
2022-01-27 09:08:54大人に対する責任を負う能力の育成も子どもに対するものと同じでよい。 まずは責任を負える前提でチャンスを与え、無責任な振る舞いに対してはそれがどのように無責任な行為であるのかと責任を負わない場合の対応を伝えた上で、今後、責任を負うつもりがあるかないかを尋ねて、それに合わせる。
2022-01-27 09:15:42きちんと責任を負えるだけで、ずいぶんたくさんの自由とチャンスが舞い込んでくるので、責任を負うことほど美味しい投資はないとぼくは思っているが、その美味しさは体験したことがない人間にはわからない。
2022-01-27 09:17:26