- shunkuriyama
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ニセ科学批判にコミットしていると、物凄く簡単なことを言っているのにまったく理解されないことがあって驚くと謂う経験が度々あるよなぁ。
2011-09-06 10:46:58たとえば、世間の人の多くが「ニセ科学批判って面白半分の莫迦いじめじゃん」と思っているときに、「面白半分の莫迦いじめ」にしか見えないことをやるのは愚かな行為だ、と謂うこととかな。
2011-09-06 10:48:35世間から実態と有利した藁人形を想定して叩かれているときにだな、その藁人形にしか見えないようなことをする奴がいると、他の人が迷惑するだろう、と謂う話がそんなに難しかったのかな。
2011-09-06 10:53:32極端なことを謂えば、藁人形をこしらえて叩いている人が極一部の変わり者だけなら別段そんなことを気にする重要性は薄いんだよ。今は世間の極普通の人々がそう謂うふうに叩いている状況だから気にしないわけにはいかんと謂う話だな。
2011-09-06 10:55:29極少数の変わり者が藁人形をこしらえている状況で、一人くらい藁人形そっくりの奴がいても、藁人形なんて極一部の例外だと説明すればいい。
2011-09-06 10:56:59少なくともニセ科学批判にコミットしている側の論者の議論は論理的であるべきじゃないかとオレなんか思うんだが、論理性に欠ける発言ばかり目に付くとげんなりしてしまうよな。
2011-09-06 11:05:58少し誤解があるようだから註釈しておくと、オレはニセ科学批判者と批判される側の間には明確な立場の非対称があると考えている。ニセ科学批判は一種の非合理批判なのだから、批判者の側にはやはり合理性が求められるだろう。批判される側は非合理があるから批判されるので合理性の欠如は大前提。
2011-09-06 11:15:06批判者相互の議論で合理性や論理性が軽んじられるようだったら、どの面提げて他人様の合理性や論理性の欠如を批判出来るのか、と謂うのがオレの考えなんだけどな。
2011-09-06 11:17:17ニセ科学批判の言説の強みって、数の論理に負けない普遍的な正当性が担保されていることだろうと思うのだが、それをさらに担保するのが合理性や論理性だよな。それは科学的知見だけの問題じゃなくて、むしろ意見交換における客観的妥当性を判断する指標として意味がある。
2011-09-06 11:24:30都合の悪い事実はスルーとか、ゴネ得とか、それこそが世間の不条理な悪弊じゃん。そんなことを許さないのがニセ科学批判の言論じゃなかったのかね。
2011-09-06 11:25:53世間話レベルの議論を目にするとさ、「ああこりゃニセ科学批判は潰されるわー」って思うよ。世間話よりは厳しい基準で議論が行われているからニセ科学批判は強い言論なのだとすれば、世間話のロジックで議論している限り数の論理には勝てない。
2011-09-06 11:28:41そして、今は世間一般の多くの人々がニセ科学のライトビリーバー予備軍で、ニセ科学批判には強い反撥がある。この現状は誰でも認識しているよな? だったらニセ科学批判は数の上では圧倒的に不利な状況だ。
2011-09-06 11:30:32発信する情報としての科学的知見が正しいなんてのは、偉大なる先人が一生懸命考えたことで、そんなことがニセ科学批判の正しさを担保するんじゃない。ニセ科学批判の言論自体の妥当性を担保するのは、意見発信や相互の意見交流の普遍的妥当性を担保する合理性や論理性なんだよ。
2011-09-06 11:33:16都合の悪いことはスルーする、人の話をちゃんと聞いてない、何度指摘されても同じことを平気で言う、これはたとえばABO FANさんなんかに代表的なメソッドだよな。それと同じことをしているような論者の存在価値をオレは認めないし、そんな人間が増えればニセ科学批判は潰されるだろう。
2011-09-06 11:37:30