戦争を無くすためにキリスト教徒ができること

戦争と国家とキリスト教会。いつの時代でもどの国でも、国家は教会を利用しようとしてきた。抵抗できた強い人も、屈した弱い人も、両方クリスチャンだ。逃げないで勇気を出せる人になりたいし、そうした人を尊敬する。ただ、自分は弱い人を責めることができない。自分も逃げないと言い切れないからだ。
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Hokuto Ide @Hokuto_Ide

戦争が起きると、国家は教会を利用しようとする。国民の民心を掌握するため。正当性を権威付けるため。統制を容易にするため。強大な力に抗うのは怖い。命を賭して勇気を出せる人は少ない。ただ、自分がその場にいたとして、自分なら声を上げることができると言えるか?罪に定める資格は自分にはない。

2022-03-01 21:50:29
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

どの時代の、どの国の、どの戦争でも、クリスチャンとして正義を、信仰を貫きその代償として命を払った人はいた。貫けず折れて晩年悔し涙にくれ、懺悔しながら天に上った人もいた。どちらも天国に行ったのだ。どちらも神様の愛する子なのだ。自分はどちらに対しても隣人となるように召されているのだ。

2022-03-01 21:50:30
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

今自分にできる最善のことをする。自分の弱さゆえ、それができなくても、少なくとも次善を成そうと志を持つ。あなたの御心をなさせてください。そのための力や必要なものを与えてくださいと祈る。戦争を前にし、クリスチャンは無力かもしれない。だが王の王であるイエス・キリストを信じ、ついていく。

2022-03-01 21:50:30
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

寝場所のない人に部屋を分け、飢えた人に食べさせ、凍える人に服を着せる。これらは善いことで、抵抗も批判も受けない。では仲間から非難されなお、敵を愛することはできるか?自分が間違っていると思う相手のために祈れるか。その相手に神罰より善導がもたらされるよう祈ることができるか?自問する。

2022-03-01 21:50:31
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

私の愛するこの者が完全に間違っていた時、あなたは彼が私に立ち返るよう祈ったのか?と神が問われる時、自分は神にどういう言葉を返すのだろうか。悲劇の中、やはり神はいないと罵るしかない人に、どう寄り添い、慰め、愛を示すことができるか。自分の中にはそんな愛はない。だから神の愛を求めたい。

2022-03-01 21:50:31
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

たくさんの死、たくさんの嘘、たくさんの悲しみの裏で、それにも負けず、愛し、仕え、与えるクリスチャンがいる。彼らを支える力こそ、イエス・キリストが教え、生き方と、十字架の死と、復活によって示した神の愛だ。彼らの善い生き方によって表されるのが神の栄光であり、崇められるのが神の御名だ。

2022-03-01 21:50:32
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。心が苦しく祈りの言葉すら絞り出せないなら、せめてこれでも祈ろう。戦争の世界に最も必要なのは何か。神の御心は、敵への憎しみと断罪や、仲間からの非難や嘲笑を乗り越え、敵を愛する世界だと、自分は信じる。

2022-03-01 21:50:33

これを書いた人:キリスト教、プロテスタント、福音派の信者で、キリスト教のニュースサイト、クリスチャントゥデイの編集長。

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