歴埃、9.11から10年目に当てて

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歴プトbot @rekipt_bot

……あの事件から10年が過ぎようとしている。時代は変わった。アラブは、暴力によらぬ変革を成し遂げようとしている。

2011-09-10 22:44:16
歴プトbot @rekipt_bot

昔話をしよう。あれは、13世紀のことだ。

2011-09-10 22:45:50
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当時、キリスト教世界とイスラーム世界は対立の渦中にあった。聖地イェルサレムを巡って血で血を洗う戦いが続き、宗教的情熱がこの地を支配していた。

2011-09-10 22:48:26
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キリスト教世界の雄、イングランドのリチャード獅子心王は、我が上司、サラーフ=アッディーン、すなわちサラディンと一進一退を繰り返す攻防を繰り広げた。結果、イングランドとエジプト=シリアの間で停戦が同意された。1192年のことだ。

2011-09-10 22:52:43
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これから話すのはその36年後、1128年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、サラディンの甥であったアル=カーミルが君主となっていた時代の我が家に、遠征をしてきた時のことだ。

2011-09-10 22:54:15
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1118年、我が家のダミエッタが第五次十字軍の攻撃を受けていた。カーミルはこのさなかに即位し、防戦の指揮を執る。この時はナイルの増水に十字軍が足を取られ、辛くもカイロ陥落の危機を乗り越えた。

2011-09-10 22:57:42
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しかし、第五次十字軍が無謀な進撃を強行したのには、それなりの根拠があった。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、援軍を引き連れやってくるという情報が入っていたのだ。

2011-09-10 22:58:41
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だが、彼は現れなかった。何故か? 我々はそのときにはまだ事情を知らなかった。

2011-09-10 22:59:15
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皇帝フリードリヒ2世は、戴冠と引き替えに十字軍遠征を行うとローマ教皇に約していたらしい。その彼が、結局1218年の十字軍に現れなかった理由、それを探るため、カーミルは外交官ファクルッディーンを皇帝の宮廷へと送り込んだ。

2011-09-10 23:01:31
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フリードリヒ2世は南イタリアのシチリア王国の国王も兼ねていた。そのため、彼の宮廷はシチリア島のパレルモにあった。

2011-09-10 23:02:49
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ファクルッディーンは宮廷を訪れて驚愕する。

2011-09-10 23:04:16
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キリスト教の教会に描かれたイスラム教徒の像、異教徒の混じり合う町、そして何より、フリードリヒが羽織るアラビア語の刺繍の入ったマント。フリードリヒはアラビア語で使者を接待し、ファクルッディーンはフリードリヒが開明的であることに感嘆した。

2011-09-10 23:05:06
歴プトbot @rekipt_bot

実はフリードリヒが生まれたシチリア島は、イスラム、ビザンツ、ノルマンの文化が混じり合い、特殊な文化圏を形成していた。フリードリヒはファクルッディーンと意気投合する。彼はアラビア語にも堪能で、カーミルと彼は十字軍に関する話題を避けて、自然科学に関する話題等を文通するようになった。

2011-09-10 23:06:13
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フリードリヒがアフリカの動物に興味を持っていたので、カーミルは彼にらくだや象を贈った。加えて、フリードリヒがカーミルから贈られた物の中で一番大切にしていたのは、天体観測儀だったそうだ。息子の次に大切な物だと、彼は語っていたと聞いている。

2011-09-10 23:07:13
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宗教、立場の違いを超えて、彼らは良き友人だった。元から十字軍に乗り気でなかったフリードリヒはカーミルと共に何とか戦争を回避できぬものかと考えていたという。

2011-09-10 23:08:18
歴プトbot @rekipt_bot

しかし、教皇はフリードリヒに迫る。一度出かけておめおめと返ってきたばかりか、もうその腰を上げようとはしない。奴は神との誓いを破るつもりか、ならば破門だ。実は、フリードリヒは一度遠征に出発し、船団でのチフスの流行のため引き返していたのだ。

2011-09-10 23:09:10
歴プトbot @rekipt_bot

ここでカーミルはフリードリヒに驚くべき提案をした。「親愛なる友よ、貴方にならイェルサレムを譲ろう」と。もちろん、彼に打算が無かった訳ではない。

2011-09-10 23:11:29
歴プトbot @rekipt_bot

当時、エジプトを治めているカーミルと、シリアを治めていたカーミルの弟は仲たがいしており、フリードリヒがシリアとエジプトの間のイェルサレムを治めてくれることによって、緩衝帯が出来る。また、当時破竹の勢いで進撃していたモンゴルに対しても有効な対抗手段となる。

2011-09-10 23:12:03
歴プトbot @rekipt_bot

しかしそうであったとしても、フリードリヒとカーミルの友情なくしては成り立たない提案だっただろう。

2011-09-10 23:12:41
歴プトbot @rekipt_bot

しかしこの時、カーミルの弟が急死しフリードリヒに緩衝帯を作ってもらう必要がなくなってしまう。当然、イェルサレムを手放せばサラディンと多くの兵士達が命を賭けて守った聖地を無償で手放すとは何事か、と内外のムスリムから非難が殺到するのは必至。

2011-09-10 23:13:47
歴プトbot @rekipt_bot

しかしフリードリヒは既に軍勢を引き連れて地中海東岸、アッカの街に上陸していた。状況を素早く察知したフリードリヒはカーミルに率直な思いを打ち明ける。

2011-09-10 23:14:28
歴プトbot @rekipt_bot

「伏して願おう、我に聖地を与えたまえ。しからずんば、私は国に戻ることがかなわぬ。キリスト教徒達に対する面目が立たないのだ」 カーミルは表面上はこう答える。「イェルサレムを引き渡すつもりはない。私もまた、ムスリム達に配慮せねばならぬ」

2011-09-10 23:15:14
歴プトbot @rekipt_bot

双方、戦闘もやむなしと判断したであろう、と、周囲の人間は考えたに違いない。実際、二人はそれぞれ戦闘の準備を始めた。

2011-09-10 23:16:00
歴プトbot @rekipt_bot

カーミルとフリードリヒは、ファクルッディーンを通じて互いの意図を理解していた。彼らは全面対決のそぶりを見せ、戦闘したという言質が取れる程度に小さな示威行動を行う。血は一滴も流れなかった。つまり、カーミルにとっても、欧州最強の帝国軍と戦ってやむなく聖地を手放したという言い訳がたつ。

2011-09-10 23:17:55
歴プトbot @rekipt_bot

五ヶ月に渡る協議の後、結果的に聖地はフリードリヒの統治のもとにおかれることとなる。しかしムスリム達は以前通り、神殿の丘での祈りを保障され、キリスト教徒による神殿の丘の侵害も禁止された。

2011-09-10 23:20:18