聖書に神の言葉を剣と書いてある理由

旧約聖書と新約聖書の関係箇所数カ所を元になんで「神の言葉」が「剣」に例えられているのか、キリスト教の教義について現時点での自分の考えをまとめてみた。
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Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神の言葉は剣に例えられて聖書に記載される場合がある。なぜ剣なのか。新約聖書ヘブル人への手紙4章12節には「心の思いや考えを見分けることができる」鋭い剣だと記されている。他の訳では「判別」するともある。何と何を分けるのか?まず神は世界を創造する時「光あれ」との言葉で闇と光を分けた。

2022-04-11 02:15:28
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

新約聖書ヨハネの福音書の冒頭では神の子イエス・キリストを指して「人の光」に例えている。そして「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」と続く。光が何の例えになるのか。光がない状態では白いものも黒に見える。光があれば白と黒を区別できる。白を黒だとは主張できなくなる。

2022-04-11 02:15:28
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

白を黒に、また黒を白にいいくるめる「人」がいたら「人の光」はどのようにしてその判別を助けてくれるのだろうか。例えばソロモンの裁判。2人の母がおり1人が寝てる間に赤子を下敷きに過失致死。もう一人の母が寝る間に自分の子の死体と隣の母の赤子を取り替え、ソロモン王に自分こそ真の母と主張。

2022-04-11 02:15:29
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

真の母も自分こそ真の母であり、隣人が偽の母だと主張した。ソロモン王は子を愛するか否かをもって光とし、黒白を、真偽を、善悪を、鋭く見分けた。旧約聖書第一列王記3章に記録されたこの故事は、愛が人の善悪の基準として機能する光であることの証左だろう。愛を知らずには善悪の基準は分からない。

2022-04-11 02:15:29
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

では愛とは何か?新約聖書ヨハネの手紙第一の4章8節は「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」と言う。神は目に見えない。霊だからだ。神は時間の外から時間を創り、空間の外から空間を創った存在だ。時間と空間に縛られた存在である人間に神はわからない。認識すらできない。

2022-04-11 02:15:30
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人に認識できない神を人が認識できるようにする方法が唯一ある。神が人になり人の前に自らの姿を現すことだ。人が神の次元に昇ることはできない。神が人の次元に下ることならできる。プログラマーは自作した仮想現実の人物になり創作人物に会うことができるがパソコンの中の人は実物の人にはなれない。

2022-04-11 02:15:30
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

愛である神の子が、人の姿をとって、人の前に姿を現した。それが人の光、イエス・キリストだ。彼は神の愛を人が聞いてわかるような言葉によって教え、神の愛によって神を愛し、隣人を愛することを実際に目に見える形で、人にできる形で実際にやってみせた。その生き様も、死に様も全てが愛の人だった。

2022-04-11 02:15:31
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「杓子定規にルールを守ること」と「ルールを制定する際に目的とされた事柄を達成すること」が両立できない場合はどちらを優先べきか。愛の実践になるほうの選択肢が優先される。貧者への施しと王への油注ぎのどちらを優先すべきか。より大きな愛の実践になる選択肢が優先される。イエスは範を示した。

2022-04-11 02:15:32
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

新約聖書の4つの福音書にはイエスの言葉と行いが事細かに記されている。これ読み学んだ人は、イエスが言葉で教えた内容を知るだけでなく、どの状況でどう判断し、何を優先させ、どういう選択肢を選んだのか、現代の読者は知ることができる。似たような状況に直面した時、思い出し、判断材料にできる。

2022-04-11 02:15:32
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

WWJD (What would Jesus Do)という言葉がある。日本語だと「イエスならどうするだろうか」だ。人生の岐路に立った時、とっさに難しい善悪の判断を要する時、聖書に記されたイエスの教えや行動を思い出舌人は、この問いへの答えを得るだろう。ただ答えを得たとして実践できるかどうかは別の問題になる。

2022-04-11 02:15:33
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神の愛を自分の人生の中で他者を愛する時に実践したいのならどうすればよいのか。実は誰も自分だけでは実践できる人間はいない。人は弱い。人は神のように完全ではない。だが、完全な存在である神の助けを借りてならその不可能が可能になる。神にできないことはないからだ。どうすれば神が助けるのか。

2022-04-11 02:15:33
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神に助けを求めれば良い。助けを求めるということはどういうことか。求めれば応じてくれることを信じることだ。応じる判断力を信頼し、応じる力があると信頼し、応じるような間柄にあると信頼することだ。神の正義と全知全能を信じ、神と自分の関係が、頼み事のできるような信頼関係にないといけない。

2022-04-11 02:15:34
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

自分と神は信頼関係にあるだろうか。ないならどう信頼関係を構築すれば良いか。むしろ今現在、どういう関係にあるのか。神を敬い、神を自分の心の最も大事な場所に置き、神が自分に提案する言葉に自分から喜んで自由な意思によって進んで従う時にのみ、神と人は信頼関係を築ける。でなくば敵対関係だ。

2022-04-11 02:15:34
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神と敵対関係にあることを自覚した人は、どうすれば、神との信頼関係を取り戻すことができるのか。残念ながらどうあがいても無駄な事だ。一生敵のままでいるしかない。死んでお詫びするしかない。だが自分が知らなかっただけですでに誰かが代わりに落とし前をつけておいてくれたとすればどうだろうか。

2022-04-11 02:15:35
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエスは自分のために代わりに死んで神にお詫びしてくれた。十字架に磔にされ、槍で刺し通され、死刑にされ罰を受けた。自分のために世界すら創造して愛してくれた神への恩知らずの罪を、何も悪いことをしてないイエスが代わりに背負った。神と自分が仲直りし、神の敵から神の子に関係を変えるために。

2022-04-11 02:15:35
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエスはただ死んだのではない。死んだあと生き返った。死人は普通生き返らない。そんなことがおきるとすれば、全知全能の神がやらない限り無理だ。そう。神はイエスを復活させ、その死が、処刑した者たちによる冤罪であることを公に示し、イエスの毀損された名誉を世界最高の名として回復して見せた。

2022-04-11 02:15:36
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神の愛は、神の子イエス・キリストの十字架と復活によって、人の見える形で、人に認識できる形で、最も明確な形で、人に提示された。これを自分ごととして受け取る時、人は神との信頼関係を回復することができる。もう神の敵ではなく神の子として自由に頼み事をし、助けを得ることができるようになる。

2022-04-11 02:15:36
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人は神の道から悪の道に自分を逸らそうとする敵と常に戦うことを強いられている。人の現実だ。剣がなければ悪の道に連行される。神の言葉である剣を得ても、使えなければ、使わなければ、やはり悪の道に及ぶ。聖書を読み知ることは剣を得ること。神との信頼関係を築くことは剣を習得することだと思う。

2022-04-11 02:15:37
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

新約聖書エペソ人への手紙6章の17節は「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」と勧めている。救いとは神との信頼関係の回復だ。その救いの兜を被った人には、神の御霊つまり聖霊が思い起こさせてくれる。自分の学んだ神の言葉を。必要な時に必要な言葉を。

2022-04-11 02:15:38
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

実生活で困難や問題に直面した時「おやそういえば聖書にこう書いてあった」と思い出すようになる。そして、抵抗もなく自然とそれを実行する自分を発見するようになる。神の言葉である両刃の剣で、自分の持つ選択肢の善悪を切り分け、優先順位を判断し、少しずつでもイエスが生きた道を自分も行きたい。

2022-04-11 02:15:38

これを書いた人:キリスト教、プロテスタント、福音派の信者で、キリスト教のニュースサイト、クリスチャントゥデイの編集長。

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