【東方神霊廟】雑考・考察ネタのログ

神霊廟関係で、雑考・考察に使えそうなネタ・思いつきをストックするリストです。 ↓今言及のあるもの↓ ●霍青娥 ・入魔「ゾウフォルゥモォ」について 続きを読む
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※物部布都について

※スペカについて 天符「雨の磐舟」、天符「天の磐舟よ天へ昇れ」

アルム=バンド @Bredtn_1et

そういえば、5ボスの最初のスペカは何故天空へ昇るのだろうか?元ネタ的には降らないといけないよねぇ…。

2011-09-14 16:55:53
アルム=バンド @Bredtn_1et

神社に巨岩として鎮座しているから、それを目覚めさせて復活させるということか。それとも、滅亡した一族の地位を浮上させるとか、そんなニュアンスなのか。最近の学説とかでの動向とかと関連させて、もし注目されてその地位が向上したのであればその動向との関連を示唆するのか…。

2011-09-14 16:59:05
アルム=バンド @Bredtn_1et

特に「○○よ、天へ昇れ!」って呼びかける台詞とかが元になっている…というようなことは考えにくいだろうし…。

2011-09-14 17:00:27
アルム=バンド @Bredtn_1et

再浮上、というと国見のことかなぁ?

2011-09-14 17:09:27
アルム=バンド @Bredtn_1et

そういえば、布都ちゃんの矢弾って長髄彦のときに登場する饒速日命の「天羽羽矢」だったりしないのかな?

2011-09-22 15:56:49

※スペカの流れについて

アルム=バンド @Bredtn_1et

一つ目が雨で属性的には水っぽい。三つ目は火だよなぁ。対極の属性を持ってきていることに意味はあるか否か。

2011-09-14 17:03:06
アルム=バンド @Bredtn_1et

まあ、普通に考えたら1〜3枚目は歴史上の流れを追っているだけに見えるけれど…。最後は最後でまた物議を醸しそうなネタだし…。

2011-09-14 17:04:07

※容姿について

アルム=バンド @Bredtn_1et

まず容姿で一言。下半身の白い布の縁に描かれている点と線の図柄ですが…あれってやはり、ニギハヤヒ命が携えていたという「十種神宝(とくさのかむだから)」の図(特に「新編武蔵国風土記稿」などに見える図像)を模したものなのではないだろうか?と個人的には思っている(完全には一致しないが)。

2011-09-16 21:24:47

※スペカについて 炎符「桜井寺炎上」

アルム=バンド @Bredtn_1et

さて、それは良いとして…今回一番気になったのは、炎符「桜井寺炎上」です。というのも、「日本書紀」(欽明天皇十三年十月)に記されている記述では、蘇我稲目が小墾田の家に安置して信奉した後、向原の家を清めて寺とした、ということは書かれているものの、「桜井」という名前が出てこないため。

2011-09-16 21:34:34
アルム=バンド @Bredtn_1et

※一方で、蘇我馬子と仏像の話は「日本書紀」(敏達天皇十四年二月)に記されています。

2011-09-16 22:08:05
アルム=バンド @Bredtn_1et

しかし他の場所に目を向けると…「日本書紀」の本文で「桜井寺」の記述が見えるのは、崇峻天皇三年三月の項に「学問尼善信寺、百済より還りて、櫻井寺に住(はべ)り。」とあるように、確かに日本書紀の中で「桜井寺」の記述がありますので、完結はしていますね。

2011-09-16 22:10:33
アルム=バンド @Bredtn_1et

ちなみに、桜井寺の補注を見てみると、「別名向原寺・豊浦寺」とあります。

2011-09-16 22:12:37
アルム=バンド @Bredtn_1et

つまり「向原寺=桜井寺=豊浦寺」というわけですね。最初の向原寺は先ほどもちょっと言及しましたが、蘇我稲目が開いた日本最古の寺。そして、この寺を開いた後に疫病が蔓延して民が数多夭逝するという事態が起きます。

2011-09-16 22:19:14
アルム=バンド @Bredtn_1et

これに対して、物部尾輿と中臣鎌子の二人が稲目が謀をしたためだと奏上して、仏像を難波の堀江という場所に捨て、伽藍を焼きました。 この一連の事件が元ネタであると考えられます。

2011-09-16 22:22:22
アルム=バンド @Bredtn_1et

ここで個人的にもう一点気になったのは、別名がいくつもある中で、何故「桜井寺」という呼称にしたのか。

2011-09-16 22:23:13
アルム=バンド @Bredtn_1et

これに関しては、「別名が複数あった」というよりは、「時代ごとに名前が変化した」といった方が正しいようです。「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に拠れば、仏教伝来の初めは蘇我稲目の向原(牟久原)の家を寺としたもの(これは前述の通り)。

2011-09-16 22:29:13
アルム=バンド @Bredtn_1et

これが敏達朝に桜井道場(桜井寺)に移され、さらにその後の推古朝に等由良宮(豊浦宮)を寺とした、と記されているようです。

2011-09-16 22:31:48
アルム=バンド @Bredtn_1et

つまり、「牟久原殿ヲ楷井ニ癸卯(敏達十二年)始作ニ桜井道場-」とあるのがそれ。 ※先の「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」は中での齟齬が多いという風聞を聞いたのでちょっと留意しなければなりませんが…。

2011-09-16 22:35:20
アルム=バンド @Bredtn_1et

日本書紀でも崇峻天皇三年で桜井寺と称しており、その後いつかは確認していませんが推古朝で豊浦寺と改めたのであれば、5中・5・6ボスがいた時代的には件のお寺が「桜井寺」と呼ばれていたのかもしれません。ということで妥当性がありそうです(豊浦寺に改称した時期は確認しないといけませんが)。

2011-09-16 22:38:41
アルム=バンド @Bredtn_1et

一方で、尾輿らが仏像を捨て、伽藍を燃やしたときはまだ「向原寺」という名前だったと考えられるので、そういった意味では「桜井寺」と呼称した理由についてはもう少し深く考える必要があるかもしれませんね。

2011-09-16 22:42:27
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