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ケータイ短歌はどこへゆく?

いわゆる「ケータイ短歌」について、山本まともさんとちょろ玉さんの会話から始まったつぶやきのまとめです。
ログ ケータイ短歌 短歌
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山本まとも @amazo3
ケータイ短歌から入った人は、その後どうなることが多いのか。飽きてやめるか、お堅い方向に向かうか、それとも純粋なケータイ短歌(?)を作り続けるのか。ケータイ短歌だけを作り続ける人が多数でてきた場合、そこにお堅い短歌とは別の蓄積が生まれてくるのか。
山本まとも @amazo3
そもそも蓄積ってなんだ、優れた作品の存在か、作者の存在か、育成体制か、評価基準が確立されることか…とか考えだしたところで手におえなくなってどうでもよくなった
山本まとも @amazo3
にしても、歌壇の短歌と結社の短歌とカルチャースクールの短歌と新聞投稿欄の短歌の傾向の違いとかわからない人(俺とか)にとって「お堅い短歌」という言葉の使い勝手のよさすごい発明したちょろ玉さんえらい
山本まとも @amazo3
ケータイ短歌からはじめたひとが、ケータイ短歌の方向性を保ったままケータイ短歌としての高いレベルを目指していきたいと考えているのに、ケータイ短歌の世界には「レベルの高さ」を試す手段が少ないために、方向性の違いを感じつつもやむなく総合誌新人賞に応募している…のかな? と思ったりする
山本まとも @amazo3
ケータイ短歌とお堅い短歌がどんくらい断絶してるのか、つながってるのか、わかりませんけど
山本まとも @amazo3
ケータイ短歌としてのレベルの高さを試す手段がない理由のひとつは、ケータイ短歌界に批評文化が無いため。批評文化がないのはケータイ短歌が「わかりやすい面白さ」を重視し読み手に分析的視点を求めないから。でも、読み手に分析的視点が要らなくても、書き手としてレベルあげるには有用なはず。
ちょろ玉 @chorodama
うれしいツイート発見!RT @amazo3 にしても、歌壇の短歌と結社の短歌とカルチャースクールの短歌と新聞投稿欄の短歌の傾向の違いとかわからない人(俺とか)にとって「お堅い短歌」という言葉の使い勝手のよさすごい発明したちょろ玉さんえらい
山本まとも @amazo3
ケータイ短歌の「わかりやすい面白さ」は、お笑い芸人のギャグに似てる。視聴者は分析しなくても楽しめる。でもお笑い芸人同士では「何故面白いのか」を考え批評し合って質を高めている(んじゃないかな)。ケータイ短歌作者同士のやりとりは、視聴者目線の「面白かったよ」の言いあいにとどまりがち。
ちょろ玉 @chorodama
140字って、議論になると少なすぎる。喋りたいことも、喋れることもいっぱいあるのに。
ちょろ玉 @chorodama
結局、自分がどのフィールドに一番アイデンティティを感じるか。ケータイ短歌の定義は、今のところNHKの番組(過去番組含む)に送られた作品プラス作者がケータイ短歌だと認識している歌に限られると思う。たとえば自分は結社誌に短歌を発表しても、それらはケータイ短歌だとプライドを持っている。
ちょろ玉 @chorodama
ちなみに自分の論文では、ケータイ短歌での<私>の排除を特徴のひとつに指摘したから、いろいろ深く聞いてみたいツイートがある。
山本まとも @amazo3
まとめると「ケータイ短歌作者も、もっと書き手目線で批評しあおうよ」というところ…?
山本まとも @amazo3
短歌教室や歌会に参加したこと、「落選展」を見て思ったこと、ちょろ玉さんの論説を読んで思ったこと( @chorodama 拝読いたしました! ケータイ短歌への溢れる愛を感じました)などをきっかけに思ったことを、だーっと言いました 
ちょろ玉 @chorodama
君はもういなかったけど「ごめんね」は空耳じゃないような気がした(ちょろ玉)
ちょろ玉 @chorodama
・・・という短歌をお堅い歌会で提出したら、ここまで散文調のものは短歌と呼んでいいんですか?という批評があった。ケータイ短歌な人は心のなかで「空耳じゃない/ような気がした」と読むと思うけど、お堅い短歌な人にその発想があるかと言えばそうじゃない。
ちょろ玉 @chorodama
たとえばあやのちゃん短歌にしてもいかに口語っぽく聞こえるかを重視しているけど、お堅い短歌で語られる「口語」とは、(必ずしも会話体を意味していなくて)「赤き鳥」が「赤い鳥」と詠われているという次元だったりする。ケータイ短歌がお堅い短歌に少しでも相手にされるにはまだまだ掛かりそう。
山本まとも @amazo3
@amazo3 「ケータイ短歌作者同士のやりとりは、視聴者目線の「面白かったよ」の言いあいにとどまりがち。 」←読み返したら偉そうすぎて変な汗かいた
ちょろ玉 @chorodama
@amazo3 僕はこれ、本質的な指摘をされていると思いましたよ。ケータイ短歌がケータイ電話の本質的機能(私と誰かとのつながり)に由来するものだと仮定できるなら、話し手も受け手もそういうコミュニケーションの在り方を望んでいておかしくないから。逆に言えば、作品としての価値を→
ちょろ玉 @chorodama
@amazo3 →(続き)追求したいという欲求に変わるときには、少しずつケータイ短歌から離れはじめている頃なのかも知れないですね(アイデンティティはケータイ短歌に感じているとしても)。
飯田彩乃@『リヴァーサイド』刊行 @iida_ayano
さっきのケータイ短歌談義、面白かったなあ。ふだん考えていることとも結構かぶる内容だったのですごく参考になった。あとちょろ玉さん、たたさんから伺っているかどうかわからないけれど、論文のコピーをいただいてます。言うのが遅れてすみません。@chorodama
飯田彩乃@『リヴァーサイド』刊行 @iida_ayano
ケータイ短歌がお笑い芸人のギャグやトークバラエティになぞらえられているのにはとても納得する。それはつまり意味のぶれようがなく、ほかの解釈の余地がない一意性というところに着地するんだと思う。
飯田彩乃@『リヴァーサイド』刊行 @iida_ayano
わたしは割と最近短歌を始めたんだけど、それにすごく違和感があった気がする。生み出した作品は手を離れた瞬間から自分とは別のモノとしてひとり歩きするものだから、解釈も受け手に委ねてどうぞご自由にっていうスタンスだったので。
飯田彩乃@『リヴァーサイド』刊行 @iida_ayano
むしろ解釈によって作品が多様性をもつことも多い。こういう解釈をされたけど本当は違う、ちゃんと伝わらなかったという声をたまに聞くと、もったいないなあと思ってしまう。
飯田彩乃@『リヴァーサイド』刊行 @iida_ayano
まとまらなくてもう消してしまったツイートなんだけど、ケータイ短歌から消えない<私>というのがこれで、むしろ短歌についての自意識とでも言うべきかもしれない。ちょろ玉さんの論文では<私>というのは歌の主体のことですよねたぶん。
飯田彩乃@『リヴァーサイド』刊行 @iida_ayano
(あ、ケータイ短歌についても最初は定義が曖昧でした)
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