1・ARTiTの「田中功起・質問する」http://t.co/cGcxO1Yqを読む。「文字通りの終わりのなさ」と「理念的な終わりのなさ」の対比。前者はフリードの言う鑑者の「作品を見る」という経験に基づいた「終わりのなさ」であり、後者は「作品」自体の構造にあるということか。
2011-09-15 10:34:552・実際、フリードは後者の例をカロのテーブル作品の分析で行っている。僕の解釈によれば、「事実上の終わりのなさ」と「権利上の終わりのなさ」に対応するように思える。
2011-09-15 10:38:49フリードによるカロのテーブル作品分析(「モダニズムはいかに作動するか」)は、ジンメルのエッセー「取っ手」とどう関連するか。この二つの論考をつなげて考えてみたい。
2011-09-15 22:01:02オープンエンドな作品が実際は閉鎖的でしかないことが多いのでなかなか難しい。今よくある参加型アートなんてほとんどがそうだと思う。ビショップの批判もそこにあるのだろう。逆に閉鎖的に見える作品がオープンエンドであることも。オープンエンドの内実についてもっとよく考える必要がありそう。
2011-09-16 12:10:44例えば絵画というメディアは、インスタレーションやリレーショナル・アートに比べたら閉鎖的に見えるけど、本当にそうなのだろうか? 良い絵画作品ってオープンエンドなものではないだろうか?
2011-09-16 12:20:37でも、オープンエンドを「多義性」のように捉えてしまったら面白くないだろう。たとえばそこに「アンフォルム」という概念を導入してもいいかもしれない。思い付きだけど。
2011-09-16 12:23:42田中功起の言う「文字通りの終わりのなさ」と「理念的な終わりのなさ」について、「消費社会における欲望の終わりのなさ」と國分功一郎が言う「浪費」=贅沢における終わりのなさにつなげてみるとどうなるか。そしてフーコーの「侵犯と限界」(「侵犯への序言」参照」)を無理やりに結びつけてみると。
2011-09-16 12:39:05フーコーの「侵犯への序言」は現代のセクシュアリティについて論じたものだが、その中にこんな一文がある「聖なるものにもはやいかなる積極的な意味も認めていない世界における冒涜行為、おおよそのところそれが侵犯と呼びうるものではないだろう」(つづき)
2011-09-16 12:53:231・「人間があれやこれやのものを唯一のものとみなしたり、部分を全体とみなしたりすることはあるでしょう。けれども、こうした思い違いがいつも起こるのは、やはり人間が特殊なものを全体とみなし、したがっていつもなんらかの仕方で全体から、また全体へ向けて考えているからにほかなりません」
2011-09-16 13:52:252・「その際、全体の把握がいつも相関的な把握でしかないのか、それとも、この把握が全体を端的に、つまり、絶対的に捉えているのかは、まだまったく未定なのだが」(ハイデガー『シェリング講義』木田元他訳)
2011-09-16 13:54:46作品を観る者が「作品をつくる」という参加型のアートに関しては、断固として否を言わねばならない。この場合、アーティストは観者に対して一つの素材を提供するということか。これは生産者がみずからの論理を隠蔽するために消費者の意向に沿ったものを提供します、という論理と同じではないか(笑)。
2011-09-16 14:20:47その場合の観者は消費の論理(記号的欲望)に従って、終わりのない差異のゲームを求めることになるだろう。ある一つの“芸術作品”とはむしろ、観者からの参加を拒まれ、予めのコードを中断されてしまうことだろう。
2011-09-16 14:25:04ところで僕は参加型プロジェクトを全く否定しているわけではありません。展覧会場で観客が参加することで完成するタイプのものや、インタラクティブなものはそれほど興味が湧かないですが、参加者を募って、その参加者と共に作るタイプのワークショップ形式の参加型プロジェクトには興味があります。
2011-09-16 15:00:39これがうまくいった場合、作家と参加者の関係は非常に密であり、ある意味では学びの空間がそこには創発します。また、できあがった「結果」を批評することもこの場合は可能でしょう。
2011-09-16 15:04:58例えば、それは学校などでは普通に起きていることであり、その付き合いは一度きりのものではなく、生涯続くこともあるでしょう。そのような親密で得難い「関係」をワークショップは作ることもできるはず。だって友人関係だって生涯続くワークショップみたいなものだし。
2011-09-16 15:07:44そのとき僕らはそれぞれの場所で「成果」を見せ合うこともできるし、それを「批評」しあうこともできる。ただし、その関係そのものは、外からは考慮の対象にはいれられないにしても。例えば僕と青山目黒の青山さんは、そうした長いワークショップをしているような関係。
2011-09-16 15:10:50例えば僕はポンピドーセンターのワークショップで得た経験もそうしたもの。そこで学んだこと、考えたことは非常に大きかった。それを仕掛けたパウエルがそれを作品と呼ぼうがどうしようが、その得られたものと比べればどうでもいいこと。WSはそのくらいたいへんなものだと思うので、僕は基本できない
2011-09-16 15:13:43@cezannisme リクリットのタイカレーは(アート関係者)参加型であり、Pawel Althamerの近作common taskとかはワークショップ型ですね。両方とも参加しないと分からないけど。僕が参加したのはこれです。 http://t.co/ZFDyXFYl
2011-09-16 15:28:55@kktnk ありがとうございます。やはり分けて考えた方がよい気がしてきました。もちろんワークショップのやり方自体も考慮すべきでしょうが。
2011-09-16 15:35:39