差し水としての「哲学」

友人の一言をきっかけに考えたことをまとめてみました。
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かちゅーしゃ @188777

「哲学」を敬遠する人が僕の周りには多いのだけれども、個人的にはとても残念なことだと思う。だって、日常の価値観に水を差すにはこれほど適している学問は無いと思うから。

2011-09-19 22:19:10
かちゅーしゃ @188777

一部の文学部哲学科卒業の人たちが、自分が考えてきた過程を端折って周りに自分の意見の上澄みだけ語って、理解出来ない大衆たちが「何だこいつら」と感じてしまい、結果敬遠される。みたいなことがあって、距離を置いている人が多いのでは、と推測している。

2011-09-19 22:24:57
かちゅーしゃ @188777

それはさておいて、僕達はおそらくなんとなーくもやもやとした「常識」の中をふよふよと日々泳いでいる。

2011-09-19 22:25:52
かちゅーしゃ @188777

この「常識」ってやつは過去からのなんとなーくをみんなでなんとなーく共有して、それが当たり前みたいな空気感を世の中に蔓延させている。んで、この「常識」から外れた言動、行動は当たり前のように大衆からは受け入れられないことが多い。

2011-09-19 22:28:03
かちゅーしゃ @188777

厄介なことに、この「常識」というやつの正当性は誰も証明できないことが多いのが実際なのだ。1+1=2であることに疑いを向けないのと同じように、「常識」は疑いのないものとして存在している。

2011-09-19 22:29:54
かちゅーしゃ @188777

この「常識」になんとなくの違和感を覚えると、一歩引いて正当性を確認してみようと思うわけなのだが、これを周りの人間に相談してみると、もちろん奇異な目で見られることになる。だから、自分の頭の中で思考する。

2011-09-19 22:32:13
かちゅーしゃ @188777

といっても、自分の思考だけではやっぱり限界があって、誰かの意見を参考にしたくなってくる。ここで有益な知見をもらえる学問が、「哲学」なんだと僕は思っている。

2011-09-19 22:34:03
かちゅーしゃ @188777

「哲学」はあらゆるものについて考える学問。常識について考えることももちろん哲学的な営み。当たり前のことを当たり前と捉えず、何故そうなのか、当たり前に至る思考はどんなものなのか、なんていうことを延々と考える。

2011-09-19 22:37:05
かちゅーしゃ @188777

こういう思考を繰り返さないと、自分のことなんて少しも分かっていかないし、世界のことなんてもっと分からない。こういった思考実験の繰り返しで、自分が見える世界は広くなり、新しい世界が広がる。新しい世界が見えてくれば、新しい生き方も見いだせるかもしれない。そんなふうに思う。

2011-09-19 22:39:09
かちゅーしゃ @188777

せっかく思考ができる人間として生まれてきたのだから、少しでも自分の世界を拡げていけたらと思う。そう思う人がひとりでも多くなれば、世界は加速度的に拡がっていく。

2011-09-19 22:41:34
かちゅーしゃ @188777

「哲学」はそんなまだ見ぬ世界へのきっかけになるんじゃないかなぁ、と僕は思うのである。願わくば、食わず嫌いにならず、「哲学」に触れてくれる人が少しでも増えるといいな、と思う。

2011-09-19 22:43:50