1942年2月パレンバンからの連合軍石油積出船団

1942年2月12日にパレンバンから石油を積みだした7隻のタンカーがありました。日本陸軍の第1挺進団による空挺作戦により製油所が占領される2月14日の2日前のことでした。
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のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

パレンバン石油積出船団 1941年12月8日大日本帝国は大英帝国に対して宣戦を布告し、時を同じくしてマレー半島に陸軍部隊が上陸してシンガポールを目指して進撃を開始した。 1942年1月にはクアラルンプールが陥落し、1月31日にはイギリス軍の最後の部隊がマレー半島からシンガポールへと撤退した。

2022-06-21 15:08:07
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このような状況のもと1942年1月30日にオーストラリアのフリーマントルをタンカー7隻と貨物船4隻からなる「MS.3船団」が出発した。「MS船団」とは本来メルボルン~シンガポール船団の略だが、タンカーの目的地はパレンバン(Palembang)であり、貨物船はバタビアで分離した。

2022-06-21 15:11:46
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MS.3船団はオーストラリア海軍重巡洋艦キャンベラ(HMAS Canberra)の護衛を受けて出発し、クリスマス島でシンガポールから来た軽巡洋艦ダーバン(HMS Durban)及び駆逐艦ジュピター(HMS Jupiter)、エンカウンター(HMS Encounter)へと交代した。 pic.twitter.com/f83Urp3cLb

2022-06-21 15:49:33
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シンガポールでは2月8日午前8時30分から日本軍の攻撃が開始され、シンガポール在泊中の艦船も脱出を開始した。MS.3船団の貨物船4隻は2月8日にバタビアに到着し、7隻のタンカーは2月9日~10日にパレンバン到着しただちに在庫石油の積み込みを開始し、完了した船から順次出港した。

2022-06-21 15:54:30
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マレー半島の飛行場が日本軍に占領されるとパレンバンへの空襲も本格化し、攻撃の危機が迫る2月12日には在泊中の全艦船に脱出が指示された。 2月13日にはシンガポールを脱出した駆逐艦ジュピター(HMS Jupiter)とストロングホールド(HMS Stronghold)と合流しバンカ海峡を夜のうちに通過した。

2022-06-21 16:05:02
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船団は日本軍機8機の攻撃を受けこの攻撃でManvantaraとMerulaが沈没し、Erling Brøvigに爆弾1発が命中し火災が発生したが消火、Seirstadも至近弾で損傷した。 写真はManvantaraとMerula 攻撃したのは陸軍第3飛行団の九九式双軽と九九式襲撃機と思われますが確証がないので詳しい方はお助けを・・・ pic.twitter.com/oCOs7Xcw71

2022-06-21 16:25:23
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Manvantaraでは乗組員51名のうち4名が死亡し、Merulaの乗組員44名はオーストラリア海軍のコルベットトゥーンバ(HMAS Toowoomba)とタンカーのHerborgに救助された。Erling Brøvigは2月14日にバタビアに到着し積載していた4,500トンの燃料油はHerborg移された。 写真はErling BrøvigとHerborg pic.twitter.com/gUCcppXW2h

2022-06-21 16:39:22
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タンカー7隻は2月12日にパレンバンを脱出したが、帰路に空襲で2隻が沈没、2隻が損傷しているので、実際かなり危険な任務だった。損傷したタンカーの石油は無傷の船に積み替えたが1万トン積のところ4500トン程度だったのは水深制限か、時間不足か知りたいところ。

2021-11-12 14:47:58
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戦時標準船入門によるとパレンバン~シンガポール間の輸送を主目的に建造された2TM型タンカーは総排水量2,850トン、最大積載量4,720トンだから、やはり水深の関係で大型船でもこれ以上積めなかったのかもしれない。4,500トン×5隻で22,500トンの積み出しに成功した。 twitter.com/noricksakurai/…

2021-11-18 19:46:57
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

このタンカー船団の話は1942年2月14日にパレンバンの製油所が日本陸軍の第1挺進団による空挺作戦により占領される2日前のことで、連合軍(ぶっちゃけエゲレス軍)さんもなかなかムチャするわというお話し。

2022-06-21 17:54:02

タンカー略歴

タンカー「Manvantara」

1931年12月にアムステルダムで建造されたオランダタンカーで、1942年2月13日の空襲で沈没し乗組員51名のうち4名が死亡しました。

タンカー「Merula」

1932年4月にアムステルダムで建造されたオランダタンカーで、1942年2月13日の空襲で沈没し乗組員44名はオーストラリア海軍のコルベット「トゥーンバ」(HMAS Toowoomba)とタンカーの「ペオブルグー」(Herborg)に救助されました。

タンカー「Elsa」

1928年にグラスゴーで建造されたノルウェーのタンカーで、1940年4月9日のドイツ軍によるノルウェー侵攻の時点でオーストラリアの海域にありました。
パレンバン脱出後2月14日にバタビアに到着し、2月21日にコロンボに向け出発すると3月3日に無事到着しました。
1942年4月3日マドレスを出発しカルカッタに向かいましたが、4月6日に日本軍艦艇の砲撃により沈没しました。

タンカー「Erling Brøvig」

1937年12月に建造されたノルウェータンカーで、1940年4月9日のドイツ軍によるノルウェー侵攻の時点でロサンゼルスからマニラに向かう途中でした。
パレンバン脱出後に空襲により損傷し2月14日にバタビアにと到着し、燃料油4500トンを「Herborg」に積み替え後応急修理を実施しました。2月19日にSJ14船団でバタビアを出発し、2月28日にコロンボに無事到着しました。その後トリンコマリー経由フリーマントルへと回航され修理されたが1942年11月までを要しました。
1942年11月に復帰後は中東からの石油輸送に従事し、1944年2月16日、PA69船団に参加してバンダレアッバースを出発しましたが、2月22日にアデン沖でU510の雷撃を受け大破し、曳航されてアデンに退避しました。9月12日に曳航されてアデンを出発し9月16日にマッサワに到着しそのまま終戦を迎えました。
1946年8月22日修理のためイタリアにむけてマッサワを出発しましたが、翌日には船体が二つに破断したものの幸いどちらも沈没せず、スエズ運河を通過してジェノヴァに到着して修理されました。
1947年3月にブラモラBramora)と改名して再就役し、1961年2月中国の海運会社に売却されCHIENSHE113と改名、1972年にTACHINGNo.13、1975年にDAQING13に改名され、1992年にロイド保険会社の登録から削除されておりそれまでに解体されてと思われます。

タンカー「Herborg」

1931年にコペンハーゲンで建造されたタンカーで、1940年4月9日のドイツ軍によるノルウェー侵攻の時点でモンバサからアバダンに向かう途中で、4月15日にバーレーンに寄港しました。
パレンバン脱出後は2月14日にバタビアに到着し、損傷した「Erling Brøvig」の燃料油4500トンを積替え、2月17日にバタビアを出発し2月28日にトリンコマリーに到着しました。
その後もインド洋を往復して輸送任務に従事しましたが、1942年5月29日アバダンを出発しフリーマントルに向け単独航行中、6月19日にインド洋上でドイツ仮装巡洋艦トールにより拿捕され横浜に回航されました。ホーエンフリートベルク(Hohenfriedberg)と改名され、1942年11月22日バタビアを出港しフランスのボルドーにむかいましたが、1943年2月26日ビスケー湾フィニステレ岬沖で英軽巡洋艦(HMS SUSSEX)により撃沈されました。

タンカー「Marpessa」

1927年にロッテルダムで建造されたオランダタンカー。パレンバン脱出後は2月14日にバタビアに到着し、その後トリンコマリーへの脱出に成功しました。
戦争を生き延び1950年から1957年にかけて、オランダのハーグにある海運会社が所有し、1957年からベネズエラのマラカイボ湖に係留されて石油タンクとして使用された後、1963年にスクラップとして売却され1964年にオランダで解体されました。

タンカー「Seirstad」

1937年にハンブルクで建造されたノルウェータンカーで、1940年4月9日のドイツ軍によるノルウェー侵攻の日にアデレードに到着しました。
2月13日に空襲を受け至近弾により船体に穴が空いたものの、なんとか14日にバタビアに到着しました。2月23日にバタビアを出発し3月4日にコロンボに到着しました。3月5日にボンベイに回航され約半年間かけて船体の修理が行われ、9月末に輸送任務に復帰しました。
戦争を生き延び1948年にオスロの海運会社に売却されました。1958年1月14日、ラス・タヌラからバルセロナへ燃料油を積んで航海中悪天候のため船体が二つに破断し、この事故で乗組員3名が死亡し、船体後部は他の船への危険回避のためフランス軍艦により沈められました。船体前部は別のフランス軍艦によりビゼルタに曳航され、その後スペインのセビリアで船体後部を新造して再生させる計画もありましたが、結局実現せず5月4日に解体されました。