エヴァンゲリオン(福音)の本来の意味ーキリスト教の文脈で

キリスト教において、福音(ギリシア語でエヴァンゲリオン)という言葉は何を意味していて、どういう文脈で使われる概念なのか、一人のキリスト教徒として個人的にはこう考えているということを書いてみた。
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Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストが十字架の上で、神様に背いた自分のために死んで罪を償ってくださり、身代わりになってくださり、神の敵だった自分を神の子にしてくださり、3日後に生き返って、自分も同じように、古い罪の奴隷だった自分が死に、自由にイエスに従える自分として新しく生まれ変わった。これが福音。

2022-08-03 00:20:02
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストの死と復活に倣って、罪の自分が死に、もはや自分ではなくイエスが自分の中で生きること。罪に縛られ神と敵対して生きる自分はイエスと一緒に十字架につけられて死んだ。神と隣人を愛する自由を得た自分が、イエスと一緒に復活した。このようにして、イエスは自分を救ってくださった。

2022-08-03 00:26:12
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

救われる前の自分は、職や学歴やお金や名誉や社会的信用や地位や人間の条件付きの愛や精神的肉体的快楽が、自分の人生の不安を解消する土台だと勘違いしていた。イエスはそのようなものの上に建て上げた人生など砂上の楼閣にすぎないと教えてくれた。イエス・キリストを土台とした時、真の平安が来た。

2022-08-03 00:35:21
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

救われた後でも、善を行いたいのに、願ってないのに、自分の憎む罪を犯してしまうこともある。自分をみじめに思い、胸を打ち叩いて罪人の自分を哀れんでくださいと、試みにあわせず悪より救い出してくださいと神に祈る。イエスのおかげで、以前は敵対関係にあった神がそう祈って頼れる天の父になった。

2022-08-03 00:47:46
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

天地に存在するもの全て、時間の始まりから終わりまで、一人ひとりの心の奥底の全てを知り尽くす神。天地を法則から全て創造しどんな規模でも、どんなに細かくでも介入できる神。人間には判別できない善悪も全て判別できる正義の神。その全知全能で義なる神と愛の信頼関係を作れた。イエスのおかげで。

2022-08-03 01:01:09
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神の国とその義を第一に求めるなら、神の御心にかなうなら、何でも祈れば与えられる。神の御心は、最も大事な戒めを通して知ることができる。神と隣人を愛すること。イエスが愛したように、イエスを模範として、イエスが教えたように、神と隣人を愛すること。だから愛する力をくださいと神に求め祈る。

2022-08-03 01:05:25
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

自分を愛してくれる人を愛するのは当然だ。イエスは敵を愛せと教えた。人は弱い。人の限定的な条件付きの愛では自分に敵対してくる人までは愛せない。神が現実に介入し、自分を神の愛の器として用いてくださる時にはじめて、人は敵を愛することができる。人は神の愛の器として、神の形に創られている。

2022-08-03 01:30:12
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人は器だ。神の愛を入れるための器だ。しかし神は人に、その器に別のものを入れる自由を、与えられた。神ならぬものを、神の座に据え、神をその座から蹴落とし、器の外に追い出す罪の自由を与えられた。その自由を使うことを願われたのではない。その自由があってこそ自ら進んで強制なく愛せるからだ。

2022-08-03 01:35:58
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神の愛でのみ満たされるように創られた器なのだから、人の心はどれだけ金や名誉や快楽をつぎ込んでも決して根本的に満たされることはない。満たされずより強い刺激を求めるようになるだけだ。それに気づくまで神は人を放蕩するままに放って置かれる時がある。心配しつつ戻って来るのを神は待っている。

2022-08-03 01:44:19
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神は人が敵対関係を止めて、愛の関係に戻ることを切望しているが、無理強いはしない。強制は愛の対極だから、神は忍耐強く待つことを選ばれる。ただ待ったのではない。人を選び神の言葉を預け伝えさせた。それでも人は戻って来なかった。そして最後に自分の独り子イエスを送り関係回復の仲介を任せた。

2022-08-03 01:49:43
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神は自分の独り子の命を与えてしまうほど、自分を愛してくださった。独り子を犠牲にしてすら、何が何でも、何をしてでも、自分との関係回復を望まれた。その重く深刻で美しい神の愛から目を背けず、背いた事実を認め悔い謝罪し、背を向けていたなら面と向かい、神の元に向かう時、神は大いに喜ばれる。

2022-08-03 02:01:45
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神に背いていた一人の罪人が、イエス・キリストを通して、神との愛の関係を回復し、救われる時、それを自分事のように、神と共に喜び祝えること。これが神の国の民として生きる人の特権だろう。神とその喜びを分かち合えることは、この世のどんな楽しみにも代えがたい。だからイエスのことを伝えたい。

2022-08-03 02:08:39
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエスのことを伝えている人、伝えようとしている人がいれば、その人を助けたい。そのために困難と戦う人がいれば共に戦いたい。そのために辱めを受ける人がいるなら共に恥をかこう。行きて告げよ、あまねくいづこの民にも、と歌い同労者と自分を鼓舞しよう。告げるたびに、天の御国は近づくのだから。

2022-08-03 02:18:55

これを書いた人:キリスト教、プロテスタント、福音派の信者で、キリスト教のニュースサイト、クリスチャントゥデイの編集長。

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