督姫の生まれ年と毒饅頭事件について

徳川家康次女督姫の生まれた年は、永禄8年でも天正3年でもなく天正4年である、とする史料の紹介と、日記・書状による毒饅頭事件の否定。
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アリノリ @a_ri_no_ri

徳川家康次女督姫(とくひめ)と聞いて、具体的なイメージが浮かぶ人はかなり少ないと思う。彼女が大河ドラマにキャスティングされたことはなく、検索して引っかかるのは多キャラを必要とする戦国ゲームのキャラクターくらいだ。信康、秀康、秀忠、忠輝らと比較すると、家康の子女の中では知名度は低い。

2022-08-06 20:13:44
アリノリ @a_ri_no_ri

そんな彼女をまとめようと思ったのは、前の秀康・秀忠と同じく、史料を読んでいたら通説と違うものにあたったからだ。督姫の毒饅頭事件についてもそれを否定できる一次史料があったため、ついでに載せることにした。 最初に、督姫の基本情報を書いておく。

2022-08-06 20:13:57
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫は、父:家康、母:西郡局(鵜殿長忠の娘?)の間に生まれた一女で、兄弟姉妹はいない。天正11年(1583)に北条氏直に嫁ぎ、氏直の死後、文禄3年(1594)に池田輝政に再嫁した。彼女を語る上で欠かせないのが、この2度の結婚である。

2022-08-06 20:14:33
アリノリ @a_ri_no_ri

1度目の結婚は徳川と北条の同盟のため、2度目は羽柴秀吉の命による結婚である。 督姫に関する一次史料は少なく、彼女について説明する場合には後世の編纂史料が用いられてきた。

2022-08-06 20:15:21
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫という呼び名も『徳川幕府家譜』にあるもので、一次史料では「家康娘」「良照(正)院」などで記され、名は確認できない。『池田氏家譜集成』には「婦宇,富宇(ふう)」という名が残されている。

2022-08-06 20:15:32
アリノリ @a_ri_no_ri

当時の女性で名が不明なのはよくあることで、督姫に限った話ではない。貴族の日記で特定の女性を追いかけていくと、同一人物(成人)の名が途中で変わることや、家での呼び名(家族の日記)と外(他者の日記)での通り名?が違う例などがあり、「督(とく)、ふう」の二つの名が残るのも不自然ではない。

2022-08-06 20:16:16
アリノリ @a_ri_no_ri

「とく」と「ふう」のどちらかが幼名である可能性もあるが、判別できる材料がないため、ここではよく用いられる「督姫」の方を徳川家康次女の名として表記する。 さて、今回呟くのは、彼女の生まれ年と没時の毒饅頭事件について、である。 先ずは生年から始める。

2022-08-06 20:16:44
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫の生年は『徳川幕府家譜』 wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html… などにある永禄8(1565)年とされてきた。この場合、督姫は氏直と数え年で19歳で結婚、輝政とは31歳で再婚、享年は51歳となる。

2022-08-06 20:17:03
アリノリ @a_ri_no_ri

この永禄8年説に対して、『池田氏家譜集成』digital.archives.go.jp/file/1216987.h… の享年41歳から逆算して出された天正3年(1575)説がある。『戦国大名・北条氏直』では輝政との間に生まれた子供の人数(6人:男4人,女2人)から、天正3年説が妥当としている。

2022-08-06 20:17:17
アリノリ @a_ri_no_ri

享年41歳説の根拠には『池田氏家譜集成』以外に、僧侶義演の日記『義演准后日記』がある。clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/id… 義演は疱瘡(ほうそう,天然痘)に感染した督姫の年を「四十餘歳」と記す。

2022-08-06 20:17:30
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫が天正3年生まれの場合、数え年9歳で氏直に嫁ぎ、21歳で輝政と再婚となる。慶長元年8月に23歳で千姫、同4年2月に26歳で藤松(忠継)、同7年10月に29歳で勝五郎(忠雄)、同9年に31歳で松千代(輝澄)、同10年に32歳で岩松(政綱)、同12年(1607)に34歳で振姫を出産した計算となる。

2022-08-06 20:18:11
アリノリ @a_ri_no_ri

永禄8年生まれだと、最後の振姫出産が44歳となってしまい、実年齢でも42歳と厳しくなる。義演の日記からしても、天正3年生まれとした方が自然であろう。 ただ、その義演の日記に天正3年説を覆す記述がある。

2022-08-06 20:18:25
アリノリ @a_ri_no_ri

『義演准后日記』慶長12年(1607)の表紙ウラに義演の祈祷用メモがある。義演は羽柴秀吉の子秀頼の祈祷を任されており、誕生日の祈祷を毎月行っていた。秀頼が巳年(文禄二年,1593)に生まれ、{今年(慶長12年,1607)で}15才、8月3日御誕生と記した後、家康の子の長福(頼宣)、鶴(頼房)の生まれ、→

2022-08-06 20:19:25
アリノリ @a_ri_no_ri

名、年齢、誕生日の後に、督姫と輝政の子の藤松、勝五郎、菊松(岩松)が続いて、次に「子歳、池田三左内儀 卅二才 十一月十一日誕生、来四月産ノ由祈念」とある。池田三左は輝政のことで、その内儀は督姫である。義演は督姫の出産の祈祷を依頼され、彼女の生年と年齢、誕生日をメモしていたのだ。

2022-08-06 20:19:41
アリノリ @a_ri_no_ri

現代でも誕生日占いがあるように、当時の祈祷や占いの際にも、何歳(干支)の何月何日の生まれか、を必ず確認する。何刻生まれまでチェックする例もある。例えば、家康の側近金地院(こんちいん)崇伝(すうでん)は、龜屋榮任(かめやえいにん)の息子の縁組話の際に生年月日を確認している。

2022-08-06 20:19:53
アリノリ @a_ri_no_ri

相性占いのためだったようで、榮任は息子庄兵衛が「とらのとし十月五日之夜半に生」まれたと書状で伝えた。他にも崇伝は板倉重昌の誕生日「戊子閏五月廿七日午刻」を日記にメモしたり、和子の徳日(=衰日)を知らせる際に、何年の生まれかを忘れて養珠院(万)に未年生まれであることを確かめている。

2022-08-06 20:20:05
アリノリ @a_ri_no_ri

また、秀頼や将軍就任後の家康・秀忠らは「毎月」の誕生日の日付に僧侶が「祈祷」をしている。これは天皇や室町幕府将軍でも確認でき、当時の人々にとっても誕生日が重要なのが分かる。代金を負担して神仏に祈念する際に、誤情報を伝えては意味がないのだ。

2022-08-06 20:20:22
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫は自分の出産の祈祷以外に、息子(藤松丸)の誕生日や路次(道中)の無事について義演に祈祷を依頼している。自分の生年についても、彼女の方から伝えたに違いない。だから、督姫が疱瘡にかかったとき、干支を知っている義演は「被及四十餘歳故、以外大義云々」とだいたいの年齢を書けたのだ。

2022-08-06 20:20:33
アリノリ @a_ri_no_ri

よって、義演の「子歳 池田三左内儀 卅二才 十一月十一日誕生」という督姫の情報は正確である可能性は非常に高いと言える。 「子年」が正しい場合、天正3年は「亥年」なので当てはまらない。「子年」は天正4年(1576)で、慶長12年に32歳にも合致し、「子歳」「卅二才」の記述に矛盾はない。

2022-08-06 20:20:45
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫が天正4年生まれなら、数え年8歳で氏直に嫁ぎ、20歳で輝政と再婚となる。22歳で千姫、25歳で藤松(忠継)、28歳で勝五郎(忠雄)、30歳で松千代(輝澄)、31歳で岩松(政綱)、33歳で振姫を出産した計算になる。 実年齢に直した場合、7歳で21歳の氏直に嫁いで、19歳で29歳の輝政と再婚した、となる。

2022-08-06 20:21:56
アリノリ @a_ri_no_ri

氏直との年齢差が14歳で、現代で言えば、小学生と大学生の結婚となろう。督姫の生年が天正4年だと、2つの点が気になる。 1つは氏直との子とされる二人の女子、もう1つは家康の子どもの生まれた間隔である。

2022-08-06 20:22:13
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫と氏直の間には二人の女子(摩尼珠院,宝珠院)が生まれた、とされる。摩尼珠院は文禄2年、宝珠院は慶長7年に死去しており、宝珠院については17歳で没したという情報もある。宝珠院が17歳没の場合、天正4年生まれの督姫は11歳(実年齢10歳)で彼女を産んだことになってしまう。これはあり得ない。

2022-08-06 20:22:25
アリノリ @a_ri_no_ri

17歳という情報が誤りで二人とも督姫の子である可能性はあるが、妾(めかけ)が生んだ子を正室督姫の養女としたのかもしれない。 天正18年(1590)に小田原の戦いがあり、この時点で督姫は15歳(実年齢14歳)である。氏直は同年七月に秀吉に降伏し、八月に高野山に入った。

2022-08-06 20:22:39
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫がともに高野山に行ったような話も見かけるが、『戦国大名・北条氏直』に記されているように、実際には父家康の領地となった小田原にいた。彼女は氏直が高野山を出て大坂に移動し大名として復活した後、天正19年8月に夫の元に戻った。しかし、同年11月に氏直は疱瘡で死亡する。

2022-08-06 20:22:54
アリノリ @a_ri_no_ri

督姫が高野山に行っていないため、彼女が妊娠&出産できそうな期間は狭くなる。二人の女子は氏直と督姫の子である可能性もあるが、氏直と妾の子であっても不自然ではないと言える。{督姫が嫁いだ年齢からして氏直に妾がいる方が自然である} 次は家康の子どもの生まれた間隔である。

2022-08-06 20:23:08