編集部イチオシ

安達景盛と源実朝:高野山西南院のツイートから

西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山(@lT0aJ4XtBBO0B2s)の解説ツイートをまとめてみました。 あわせて、大河ドラマで放送された景盛にまつわる話についても少し補足。
19
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

鎌倉武士は、さいきん暴力的な面にスポットがあたることが多いですが、一方で文化に対する深い造詣を有した人物も少なくなかったのは、無視できない史実です。

2022-08-25 13:33:36
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

建保元年(1213)2月2日、将軍源実朝は、昵懇の祗候人の中から「芸能の輩(○ともがら)」を選んで「学問所番」と号し、番を組んで祗候させています。実朝は、学問所番に対して、各番交替で学問所に参候して、和漢の古事を語るよう命じています(『吾妻鏡』)。

2022-08-25 13:33:48
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

その一番には、北条泰時とともに、金剛三昧院にゆかりのある安達景盛もいました。ですので、景盛の教養は、かなり高いものがあってことは間違いありません。実朝の死後に出家した景盛は、法名を覚智と称し、醍醐寺金剛王院の実賢僧正に師事して、真言密教を学んで伝法灌頂まで授かりました。

2022-08-25 13:34:43

学問所番は3つの番(チーム)から成っており、各番には6人が所属。泰時や景盛と別の番には結城朝光もいた。
全体を統括する奉行に任ぜられたのは北条時房でした。

西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

景盛こと覚智は、金剛王院相伝三宝院流覚智方(三宝院流実賢方覚智相承とも)の祖です(『密教大辞典』法蔵館、222~223頁)。

2022-08-25 13:35:00
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

ちなみに、景盛は、かの京都高山寺を開いた明恵上人とも深い関係を持っていました。寛喜3年(1231)10月、明恵上人の病状が悪化したことを聞いた景盛は、高野山を下って高山寺に参り、上人と対面しています(『明恵上人伝記』)。

2022-08-25 13:35:24
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

越えて寛喜4年(貞永元年、1232)正月19日巳の刻、異香(ふつうと異なるよい香り)を感じた景盛は、不審に思って上人の病臥する草庵に駆けつけたところ、上人は遷化していたのでした。これは、上人の高弟定真による『定真備忘録』の伝えるところです。景盛の知られざる貴重な一面を見て取れましょう。

2022-08-25 13:36:58
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

「くまもなく心のうちの光こそ まことの月のかげにもありけめ」(○原片仮名書) 「おろかなる我身はおもひしらずとも ありあけの月のかげにもらすな」 これは、上人の「くまもなくすめるこゝろのかゝやけば わがひかりとや月をもつらむ」という和歌に対する、景盛の返しです(『明恵上人歌集』)。

2022-08-25 13:38:35
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

景盛が宝治合戦で示した武的な一面だけを論うだけではなく、彼の教養人・宗教者として面も踏まえなければ、その全豹にせまることは、とうていできないでしょう。シンポジウムでは、このような問題にも触れたいですね。

2022-08-25 13:39:20
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

金剛三昧院と関係の深い、安達景盛(大蓮房覚智)の人物像については、古い論文ですが、多賀宗隼先生の「秋田城介安達泰盛」(『論集中世文化史』上 公家武家篇、法藏館、1985年。初出1940年)が重要です。次にその一節を引いておきましょう。

2022-08-25 18:32:12
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

「当時彼(○景盛)は既に出家して覚智と称して高野に隠棲していたが、常に天下の形勢に注目するを怠らず、時あたかも三浦氏の勢力強大にしてややもすれば北条氏の塁を摩し、殊には自家の存立を危うせんとするを見て、先を制して大事を未然に防ぐの必要を痛感し、遂に同年四月、親しく関東に下向して

2022-08-25 18:32:51
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

三浦氏討滅戦の火蓋を切ったのであった。即ち一方に於ては、踟蹶(○チケツ。徘徊して前に進まないさま)決せざる幕府当局を引摺って意を決せしめ、他方三浦氏を激発せしめて戦端を開き、その子義景、孫泰盛を励して進んでこれを討たしめ、遂にこれを族滅して以て執権政治と自家との憂患を除きたるが

2022-08-25 18:33:22
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

如き、その政治的眼光の如何に鋭く、その手腕の如何に非凡辛辣なるものありしかを察せしむるに充分である。(中略)  景盛は上述の如く初め栂尾に住したが、後高野に入って大蓮房覚智と号し、高野入道と呼ばれた。彼が出家したのは建保六年正月二十七日将軍実朝暴(○にわか)かの薨去を悼み悲しむの

2022-08-25 18:34:03
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

あまりに出でた事は周知の如くである(景盛の如き政治的辣腕家がかくも深く実朝に傾倒したという事実は、或は実朝なる一風流将軍に止まらずして、実は政治的識見に於て非凡なるものを備えていたという事を傍証するに足るものではなかろうか)。彼はなお明恵上人遷化の時も(寛喜四年四月十九日)

2022-08-25 18:34:14
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

高野から栂尾にかけつけている。宝治乱に際しては冷血を疑わしむるまでの鉄腕を揮うた政略家の人間味を示すものとして忘るべからざるところであろう」

2022-08-25 18:34:27
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

引用は以上ですが、景盛の人物像についてバランスの良い評価を示しておられます。文章はまことに雄勁で、風格を感じますね。

2022-08-25 18:40:00
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

あと、興味深く思われるのは、「政治的辣腕家」たる景盛が実朝に殉じて出家したことから、実朝が「一風流将軍」に止まらず、実は「政治的識見に於て非凡」であったという観察を示された点です。これはステレオタイプな実朝像をいち早く更新しようとした点で、なかなか興味深いご指摘ですね。

2022-08-25 18:40:37

景盛の母・丹後内侍(比企尼の長女)は京で二条天皇に仕え和歌の才にも秀でていたと伝わり、彼の教養は母親から薫陶を受けた賜物とも考えられる。
そんな人物が、宝治合戦(1247年)では裏ボスと化すのが鎌倉なんだが。

鎌倉武士と仏教・信仰については、最近出た「芸術新潮2022年7月号 運慶と鎌倉殿の仏師たち」が運慶の作品を中心にわかりやすく解説されており、入門編として適切と思う。写真も美麗。

大塚久著「将軍実朝」(1940年)について

西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

ところで、金剛三昧院にもっとも縁の深い源実朝については、多くの伝記が出ていますが、近年ほとんど忘れられているのが、大塚久氏『将軍実朝』(高陽書院 1940)です。この伝記は、屈指の実朝伝と評してよい名著ですが、一度も復刊されていないのは、残念ですね。

2022-08-25 18:46:20
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

政治家としての実朝に、いちはやく光をあてたのは、大塚氏が嚆矢ではないでしょうか。「鎌倉殿の13人」の影響で、多くの新進の著作がでるのは結構なことですが、このような貴重な著作が埋もれているのは、実に残念です。「復刊するぞ」という具眼の出版社はないでしょうか……

2022-08-25 18:49:30
西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 @lT0aJ4XtBBO0B2s

次に示すのは、『将軍実朝』第19章「結語」の一節です。 「実朝は北条氏から諫言を食つたことが数回はある。そして其の諌言は、幕府人としては至極尤もな諫言であつたことを私も認める者ではあるが、他人を諌言する場合、諌言する方に理のあることは、これは寧ろ当然のことであらう。

2022-08-25 19:01:05