最近の隈さんをはじめとする材木や部品を集める「粒子派」とはいったいなにか、

ここ数年、隈研吾さんの建築デザインをはじめとるす、木材が集積されたり、同じ部材を繰り返す手法は、マッチ棒アートなどのオカンアートにも通じるものであるという仮説
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建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

なんだろうか? このビルの外壁仕上げは。 ダクトのフランジをワイヤーでつないでいるだけのようにも見えるが pic.twitter.com/cIA410wgdA

2022-08-20 22:12:57
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建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

設計がクマさんじゃない!大手建設企業もクマ風味になってしまった。 ↓ 壁面を無数の木製クロスで覆う、環境配慮を追求した上智大学の新校舎が完成 xtech.nikkei.com/atcl/nxt/colum…

2022-09-04 19:18:22
建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

ここ数年、隈研吾さんが建築デザインに使う木材が集積されたり、同じ部品の繰り返す手法は、粒子派、粒子系とでも呼ぶべきもので、建築全体のカタチを表現するときに全体像を表現しながら、構成部材のまとまりを残す。いわばマッチ棒細工やタバコの箱を集めてつくる五重塔のようなものである。 twitter.com/mori_arch_econ… pic.twitter.com/K81ecIxzco

2022-09-04 21:41:51
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建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

なぜ、「粒子派」に向かっているのか。 それは、建築造形に個人的嗜好を表現することを避けながら一方で作家性を表現したいという、矛盾した思考の結果だからである。現在、日本の建築家は造形に根拠性を問われた場合に、自らの建築思想や造形根拠、建築的思考を語ることから逃げているのが実情だ。

2022-09-04 21:45:26
建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

結果として、造形の輪郭や空間構成に恣意的な表現をする根拠を持たないまま、建築造形に向かっている。そのときに形態の意味性のないままに、視覚表現をする手法のひとつに、既存形態の集積が別の輪郭を持つときのアンビバレンッな形態表現の不可能性を導入しているのがパッケージアートの手法である。

2022-09-04 21:49:57
建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

パッケージアートとは、庶民の手すさびのごとくタバコの箱を集めて作ったお城とか、ワインのコルクを集めた巨人とか、菊人形のたぐいである。これらのアートは最終表現としての城や巨人や武者の像の出来を問うのではなく、世俗物質の集積が輪郭を形作るときの認識のゆらぎを起こすのが目的だ。

2022-09-04 21:54:34
建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

現代美術ではGary Hoveyなど身近なものナイフやフォークを集積させる作品がある。 そのとき、輪郭として認識する「鳥」と、構成する粒子としての「スプーン」「ナイフ」の間で、ゲシュタルト崩壊(視覚認識のゆらぎ)「鳥?」「ナイフ?」の連鎖が起こり続けることが、このアートの意味となる。 pic.twitter.com/ZliQcAHd3z

2022-09-04 22:34:10
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建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

「粒子派」は、建築表現の視覚要素を「建築としての輪郭」と「構成する部材」の間でゲシュタルトを引き割くように仕掛けているということだ。 結果として「輪郭」も「粒子」も世俗的な意味を持っているほうが、作品の強度は増すとになる。つまり「家形」が「しゃもじ」で出来ているといったようにだ。

2022-09-04 22:38:14
建築エコノミスト森山高至「土建国防論」執筆中 @mori_arch_econo

結果として、隈研吾をはじめとする粒子派とは「菊人形」のごときものであり、粒子派がコンテクストをもたないことは、輪郭と粒子の間における引力と疎力という閉じた関係によるものだからであろう。 pic.twitter.com/HK8xL2Sy5D

2022-09-04 22:43:48
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