- miurano_suke
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質問ありがとうございます<(_ _)> 金上盛備(盛満。流布してるのは「盛備」ですが以下「盛満」で行かせてもらいます)についてですね。(つづく) pic.twitter.com/cd1ExQj7ym
2022-10-08 22:54:51僕が知ってる範囲だと江戸時代成立とされる軍記物の「会津合戦記」などにその呼称が表れます。 というわけで盛満健在当時に「蘆名の執権」などと呼ばれたことはなかったのだろうと思っています。
2022-03-27 20:14:59後世の人に「執権」という印象を与えることになったその因ということであれば、それはやはり蘆名盛隆横死後、針生盛信、富田氏実、平田氏範と共に蘆名家の最高首脳を形成し、その中でも最高の家格を以て蘆名家をリードしたことから、ではないでしょうかね。
2022-03-27 20:15:27最も古いのは永禄10年(1567)、甲斐武田家と連携して蘆名盛氏が越後上杉家を攻めた時、盛満が軍兵を率いて越後に侵入しています(『福島県の古代・中世文書』126-7、128-9)。
2022-03-27 20:16:23しかし盛氏・盛興父子の時代の記録はこれのみで、蘆名家の軍事力の有力な一翼を担っていたのは確かと思われますが、外交を含めた領国運営には携わっていなかったのではないかと思います。
2022-03-27 20:18:09次に史料上表れるのは天正4年(1576)。黒川の商人司・簗田藤左衛門に荷駄の輸送等に関する判物を下しています(『福島県の古代・中世文書』117-2)。領内の物資流通は領国運営についての重要な事柄で、この段階の盛満は蘆名家の領国統治の重大事を管掌するようになっていたと言えるでしょう。
2022-03-27 20:21:14そして天正4年と言えば蘆名家17代・盛興の病死、盛隆が18代となって2年後。この時期ということを考えると、やはり、二階堂家からの養子である盛隆の家督相続に伴い、その補佐と権威の補強として、金上盛満を家政中枢に登用したのだろうと推測できます。
2022-03-27 20:22:13その後、盛隆が実権を握ると富田氏実と共に蘆名家の外交の多くに関係するようになり、盛隆横死後の彦姫・亀若丸の時代になると針生盛信と平田氏範を加えつつ、義広の代に没落するまで続きました。
2022-03-27 20:22:29天正年間の外交関係での活躍ぶりは正に八面六臂で、伊達、上杉、佐竹、織田に上方や南奥諸侯と非常に広範囲に渡ります。 後世の人がこれを「蘆名の執権」と捉えたのも宜なるかな、といったところではないでしょうか。
2022-03-27 20:22:44またあまり知られていませんが、金上盛満は細川藤孝から「風雅御心懸殊勝千万」と評されるの数奇者で和歌についても「別御数奇之事」というほどで(『福島県の古代・中世文書』128-6)、藤孝に白鳥を贈ったりもしています。この辺のことももっと知られてほしいところですね。
2022-03-27 20:24:04