戦国期の会津蘆名家の越後への取り組みについて

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三浦介 @miurano_suke

質問ありがとうございます<(_ _)> 蘆名盛氏が越後に攻め込んで、上杉謙信にボコボコにやられた…というのは、まあそれぞれ主観の問題がありますよね…。(以下ツイートに続く) #マシュマロを投げ合おう marshmallow-qa.com/messages/a9a80… pic.twitter.com/6Pki66lHWJ

2022-07-17 16:56:00
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三浦介 @miurano_suke

僕自身蘆名家は頻繁に越後に軽く手を出してはすぐに引っ込むということを繰り返してた印象があったのですが、ご質問を受けて改めて調べてみたら実は盛氏が謙信の代に越後に攻め込んだのは永禄10年、武田信玄と連携しての一度だけしか確認できず…これは意外でした。

2022-07-17 16:57:13
三浦介 @miurano_suke

しかも「鵜浦左衛門入道宛武田信玄書状」(『福島県の古代・中世文書』128-9)とその添状と思われる山県昌景書状(同書126-7)によると蘆名家からは小田切一族だけでなく「金上(金兵)・松本(松右)」が出陣している。

2022-07-17 16:57:39
三浦介 @miurano_suke

この「金上(金兵)」は間違いなく金上兵庫盛満(後の遠江守)。「松本(松右)」は一次史料上、蘆名家中には松本右京亮と右近が確認できますが、上杉家との外交に名前が出るのは右京亮で、右近は岩城家との交渉で出てくるので、恐らく松本右京亮でしょう。

2022-07-17 16:59:16
三浦介 @miurano_suke

この松本右京亮が蘆名家中でどんな立場かはっきりとはわからないのですが、上杉家との外交にしばしば登場する松本伊豆守系の人物で、受領名を名乗る前という可能性があります。時期的には実輔か…あるいはその父親か。

2022-07-17 17:00:02
三浦介 @miurano_suke

金上盛満は蘆名家に於いて家格最上位であるのみならず、最大級の動員力があったと思われ、また松本右京亮も「伊豆守系」だとすれば史料に頻繁に名が現れるので、宗家の「図書助系」程ではないにしてもかなりの有力家臣だったと考えられます。

2022-07-17 17:00:43
三浦介 @miurano_suke

つまりこの時の蘆名家の取り組みは決して軽くなかった。事実、菅名庄に乱入した会津勢は神洞、雷の両城を落とすなど、大きな戦果を挙げていました。

2022-07-17 17:00:59
三浦介 @miurano_suke

が、これに対抗して上杉謙信(当時は輝虎)が足軽を派遣すると会津勢はこれに敗れたらしく、阿賀北衆の色部勝長などに「五百余人討捕候」と誇らしげに伝えています(『上越市史別編1』560)。

2022-07-17 17:01:21
三浦介 @miurano_suke

500人以上討ち取ったというのは誇張があるにしても、会津勢がそれは見事に敗退したのは間違いなさそうで、「ボコボコにされた」と言われてもまあ仕方ない…のかもしれません(T_T)

2022-07-17 17:01:45
三浦介 @miurano_suke

その後は謙信の死後、御館の乱と新発田の乱への介入となり、これも上手く行かなかったのは確かですが、数としてはこの3回(御館の乱と新発田の乱への介入はそれぞれ長期間にわたってはいますが)くらいのものなんですね。

2022-07-17 17:02:47
三浦介 @miurano_suke

また盛氏以前の越後侵入についてですが、例えば明応3年、越後国内の紛争に於いて、越後守護上杉房定から小田切一族が助力を求められたりはしていますが、これに蘆名家がどの程度絡んでいたのか、また小田切一族もどのくらい応じたのかなどは不明で、他に明確な蘆名家による越後侵攻は確認できません。

2022-07-17 17:03:05
三浦介 @miurano_suke

なので「蘆名家はたびたび越後にちょっかいをかけては返り討ちにあっていた」というのは印象が先行しているということのように、今回調べて思いました。

2022-07-17 17:03:22
三浦介 @miurano_suke

そもそも相変わらず世間一般には浸透してないようですが、会津蘆名家と越後上杉家は友好的だった期間のほうが長いんで、そんなにしょっちゅう揉めてたわけではないんですよね(「年報三田中世史研究21」所収、渡辺勝巳「戦国期越後上杉氏の対外交渉と取次」参照)。

2022-07-17 17:03:38