修験道について

以前つぶやいた修験道に関する事をまとめました。
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@shouske

日本人の宗教観と精神性について考えてるんだけど、修験道というのがはずせないキーワードじゃないかと思う。今まで明治期以降の新興宗教について、なんで明治期以降にこんなにも多くの新興宗教が生まれてきたのかが疑問だった。しかも神がかり的教祖による宗教が多い。続く

2011-08-02 20:26:11
@shouske

岩木山の赤倉信仰は、明治時代に栄助様という生き神様あたりを大元として辿れるけど、それ以前には鬼信仰がおおっぴらでない形であった。昭和になって赤倉には多数のお堂が乱立する。なぜ昭和なのか。そういった信仰を求めていたならもっと前からあったはず。

2011-08-02 20:30:19
@shouske

それ以前、明治の初めの修験道禁止令以前の青森県南の状況は組織だった山伏が地域ごとにお堂を持っていた。お寺や神社ではなく山伏のお堂が。山伏の仕事は加持祈祷や占いであったり。そういったものが修験道禁止により無くなれば代わりのものを求める気持ちが人々にはあったはず。それが赤倉信仰では

2011-08-02 20:34:43
@shouske

青森におけるイタコやオカミサンは明治以前もあったのかもしれないけど、組織としてまとまるのは明治以降。江戸時代に山伏だった人々は禁止令以降、神社神主になったり還俗したりで多くの人が修験道から離れている。突然なくなったものに対して代用を求めるのはよくある話だと思う

2011-08-02 20:39:41
@shouske

今青森県内をあちこち歩くと、庚申様や蒼前様、道祖神などの仏教でも神道でもない信仰の形を多く見る。今はなくなってしまった山伏による信仰形態は元日本の自然崇拝や祈祷による願望成就、占いなどを含みながら大衆の信仰の核心を担っていたのじゃないだろうか

2011-08-02 20:45:01
@shouske

明治の修験道禁止令の時に山伏の人数は17万と。人口3千3百万の時代に。山伏のお堂はその時神社や寺に鞍替えして、そうできなかった者は還俗したと。現在神社や寺としてある物のかなりの数は大元が修験道と推測できる。神社になったものは官費の出る国家神道になった。生きるために信仰の形を変えた

2011-08-02 20:51:39
@shouske

もうちょっと考えて続きを書く

2011-08-02 20:52:12
@shouske

今修験道と言ったらほら貝吹いてあの装束で山を歩く人という認識しかない。でも山伏の人口から類推すればもっと組織立ったもののはずで、近隣の調査によると世襲又はそれに近い形(一族の中で聡明な人を立てるとか)での継続があったらしい。山伏の組織も院号などのヒエラルキーを持っていた

2011-08-02 21:12:10
@shouske

現在では日本の宗教といえば寺と神社と認識されてて、江戸時代以前もそうだったと思われているけど、そもそもその認識が違うんじゃないだろうか。そして日本人に深く受け入れられていたのは山伏的な混沌の世界で江戸時代の国学以前は寺・神社の区分けすらなかったんじゃないだろうか

2011-08-02 21:17:08
@shouske

たとえば僧侶として即身成仏した人もいる。密教系は山の中に寺院を作ったり。日本人の原風景は教道仏教や教道神道じゃなくてコングロマリットの信仰の中に生きてたんじゃないのかな。現在から過去を類推するのは途中の大変化を見落としてるんじゃないかな

2011-08-02 21:22:11
@shouske

日本人の信仰ってなんだったんだろう、縄文時代とどう変化したんだろう、もっと知りたいと思う。山の神についても後付の解釈じゃなくてどうなんだろう・・・

2011-08-02 21:26:16
@shouske

@rsmoon 役小角は師匠が道教の人だとか。道教と修験道の類似性は言われてますね。ただ現在の神道のかたくなさはそうした考証を阻む感じがします。日本が融通無碍なのではなくて、もしかしたら仏教からの接近があったのかもと考えています、修験的なものの取り込みが

2011-08-02 21:43:39
@shouske

宗教者と信仰受容者との相互のかかわりは特殊宗教史学の重要な問題でなければならない。宗教教理は宗教者を媒介として信者の生活なり行動なりを規制して行くものであるが、逆に信者によって宗教が掣肘され歪曲される面のあることも見逃してはならない 堀一郎「民間信仰」より

2011-10-03 20:42:39