あんまり言う人いないけど、格差拡大で日本にニューリッチクラスが産まれるとマーケットの美術作家には追い風なはずなんだよね。
2011-10-04 18:27:35そして、やはりすごい内向きなんだろうなと。以前はあった、グローバルなマーケットに感じられた健康な感覚がない。グローバルなマーケット自体がそれ単体で閉じてる感じ。
2011-10-04 18:36:52これは多分、アートの問題と言うより下部構造の問題として考えたほうがリアルだと思う。資本の運動って、進行すると作品を慣らす。他の産業と同じ。
2011-10-04 18:42:09面白い記事。美術品買うのも個人富裕層というより企業かもね。コーポレートランドの衝撃もはや国家は企業を支配できない http://t.co/K0JtMLNE
2011-10-04 22:06:22とか言ってたら、へー。ドイツ、EFSFへの拠出額はこれ以上引き上げず=財務相 | Reuters http://t.co/pcWoDIlG
2011-10-04 22:09:08最適化された企業に買われる作家は伸びる。その他に学校で定収を得る作家が一定数いて、あとはその他。そして、それらの住み分けは批評的にはまったく階層を作らない。逆を言えば批評は売り上げにまったく影響力を持たない(すでにそうなってるか)。
2011-10-04 22:15:40追加
昨日の続き。哲学、あるいは芸術といったものの内実よりも資本の運動こそが脱構築を進行させるのだ、という議論があった。マーケットはあらゆる外部が交差する交通空間であると。しかしこれは80年代の議論で、かれこれもう30年もやってる話。
2011-10-06 03:54:16当時日本はバブルの最終局面で、実際あらゆる問題は圧倒的な経済成長が吸収していくかに見えた。「世界」は(日本の、各国の)マーケットにとって未だに「外部」であり、だからこそ「世界マーケット」に出ることは外部性=他者性を担保した。
2011-10-06 03:54:40しかしこれはグローバル化途上の論理で、実際に資本が世界を覆い終えたら、マーケットは外部性=他者性を失う。それは単なるシステムに、しかも一切の他者性を既に商品化し終えたシステムになる。だから世界マーケットは巨大な閉鎖空間になる。
2011-10-06 03:55:05村上隆はだから、優れて80年代のイデオローグ。しかし、90年代から0年代にかけて、「世界市場」の幻想は完全に消えた。世界市場は誰も救わないし、外部性も他者性も担保しない。むしろ全ての外部を内部化し、全ての他者性を均す。スーパーフラット!完成の巻。
2011-10-06 03:56:30全ての日本人はアジア、中東、アフリカ諸国の人々と均質な労働力になる。「世界市場」がもたらした脱構築は完成した。そこにはもう外部もない。他者もいない。
2011-10-06 03:57:01世界市場のアートも自動的に均質になる。インドのカプーアも、南アのウィリアム・ケントリッジも、日本の名和晃平も皆同じバックグラウンドとテクノロジーとコンテキストで売買される。
2011-10-06 03:57:32いや各自の固有のコンテキストがある?その固有さこそ均質であるための調整された差異(商品性)でしかない。絶対的な差異をもつものは作品としてパッケージされない(パッケージされた作品は絶対的差異を失う)。
2011-10-06 03:57:54この流れに対抗しているかのように見えるのが地域ビエンナーレ・トリエンナーレ。曰く、巨大な単一マーケットに対しローカルな差異に基づいたローカルなコミュニケーション(実はローカルなマーケット)こそが世界市場が失った他者性を見出すと。
2011-10-06 03:58:25これがバブル崩壊以降のアートの前線になった。しかし、世界市場と地域経済は当然コインの裏表でしかない。外部を失った資本は内部に小さな差異を見出しそこに利潤を形成する。グローバルマーケットの延命作がローカルマーケットだ。調整された差異。
2011-10-06 03:58:56いずれにせよ、こういう閉塞感、世界市場の均質化の中での絶対的差異の表面化としての異議申し立てが各国のデモじゃないのか。我々は均質な労働力ではないのだ、と。
2011-10-06 04:02:45