木俣守勝さんが語る「赤備え」の話

直政さんはお酒飲んでるそうです
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井伊万千代直政 @1561_naomasa

こんばんわ、おひさしぶりにございます。井伊家家臣団、筆頭家老の木俣守勝にございます。

2011-10-07 21:12:32
井伊万千代直政 @1561_naomasa

さて。直政殿に変わって…とは申しますものの、何を話してよいか判りませぬ故、今回は「赤備え」について簡単に、そして少しだけお話しいたしましょう。#赤備え

2011-10-07 21:29:30
@ngmsic_go1626

拝聴致します RT @1561_naomasa: さて。直政殿に変わって…とは申しますものの、何を話してよいか判りませぬ故、今回は「赤備え」について簡単に、そして少しだけお話しいたしましょう。#赤備え

2011-10-07 21:36:50
井伊万千代直政 @1561_naomasa

…まずは「赤備え」とは何哉? から簡単に説明を致します。#赤備え

2011-10-07 21:38:12
真田幸村🐎女阿安姫 @aya_sanada1615

ちちうえ も あかぞなえ でした から おはなし たのしみ です!(●´∀`●) RT @1561_naomasa: さて。直政殿に変わって…とは申しますものの、何を話してよいか判りませぬ故、今回は「赤備え」について簡単に、そして少しだけお話しいたしましょう。#赤備え

2011-10-07 21:39:17
武田信玄(たけのこ派) @shingeeeeen

拝聴 RT @1561_naomasa: さて。直政殿に変わって…とは申しますものの、何を話してよいか判りませぬ故、今回は「赤備え」について簡単に、そして少しだけお話しいたしましょう。#赤備え

2011-10-07 21:40:25
井伊万千代直政 @1561_naomasa

「赤備え」とは、簡単に説明いたしますと、軍制に於ける『軍器がすべて「赤若しくは朱金」等で統一された軍勢や軍団』の事を申します。#赤備え 

2011-10-07 21:41:39
井伊万千代直政 @1561_naomasa

軍器とは鎧兜や、軍旗幟や馬具、刀槍の装飾、母衣に陣羽織、団扇等、戦に必要な武具類全ての事を指しますが、「赤備え」というものは、それら全てが「赤く」染められているものを指します。#赤備え

2011-10-07 21:43:24
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして、「赤(朱金)」の武具を備えることが出来る者は、必ず武功の実績を裏打ちされたものでなければ成りませんでした。「赤」を使えるという事は、大変名誉なことだったのです。「赤備え」…赤具足というものは、一般のものは使用禁止されていたのです。#赤備え 

2011-10-07 21:47:16
井伊万千代直政 @1561_naomasa

「赤備え」の存在は、殿…直政殿が家康様の元で先蹤を成したものですが、本来は武田軍から発したものでして、他にも多数「赤備え」は存在しておりました。徳川の「赤備え」の大元となった「赤備え」は、もともとは武田軍の飯富(おぶ)兵部少輔の従えていたものにございます。#赤備え

2011-10-07 21:51:18
井伊万千代直政 @1561_naomasa

飯富兵部少輔は武田軍でも勇猛果敢な武将にございまして、武田軍の中でも三百騎を預かる侍大将にございました。直政殿の「兵部」は甲山の猛虎と呼ばれた、この飯富兵部少輔より肖ったもので、始めは自称にございました。#赤備え

2011-10-07 21:55:08
井伊万千代直政 @1561_naomasa

飯富兵部少輔は、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いで、妻女山攻撃の別働隊の大将を務めるなど柱石として武田氏躍進に尽力し、信玄公の嫡男の義信殿の傅役(後見人)に任命されるなど、武田氏随一の宿老でございましたが(続)、#赤備え

2011-10-07 21:58:33
井伊万千代直政 @1561_naomasa

対今川氏の方針を巡り、父子の間で対立を深まると、飯富兵部少輔は義信殿を担いで謀反を企んだとして捕らえられてしまい、永禄8年(1565年)10月19日、その責任を取らされる形で、ご自害なさったそうです。#赤備え

2011-10-07 22:00:44
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして飯富兵部少輔の率いる「赤備え」は弟(甥説もあり)である山県昌景殿が継ぐことになります。#赤備え 

2011-10-07 22:02:56
井伊万千代直政 @1561_naomasa

山県昌景殿の旧名は飯富源四郎と言い、はじめは信玄公の近習として仕え、続いて使番でしたが、信濃攻めの功績によって騎馬150騎の侍大将に抜擢されたそうです。何故、昌景殿が「赤備え」を継ぐことになったかというと、飯富兵部少輔が謀反を起こし(続)、#赤備え 

2011-10-07 22:05:48
井伊万千代直政 @1561_naomasa

@mori1582oran ありがとうございます。なかなかこういった話を直政殿が話したがりませぬ故、私が話しております

2011-10-07 22:10:26
井伊万千代直政 @1561_naomasa

昌景殿は血族である飯富兵部少輔が、その謀反に関与している事を承知の上これを信玄に訴えたからだそうです。この功績により飯富兵部少輔の「赤備え」を引き継ぐと共に、飯富の姓から信玄公の父親の武田信虎殿の代に断絶していた山県の名跡を与えられて山県昌景と名を改めたそうにございます。#赤備え

2011-10-07 22:10:59
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして武田氏滅亡後、本能寺の変による武田遺領の争奪戦を経て、甲斐国は徳川家康によって平定されますと直政殿に武田遺臣が配属され、同時に徳川精鋭部隊を率いたものが「赤備え」となりました。井伊の赤備えは多分、私が語るより皆様方の方がようく知って居られると思うので割愛します。#赤備え 

2011-10-07 22:15:03
井伊万千代直政 @1561_naomasa

最後に真田の「赤備え」ですが、慶長20年(1615年)大坂夏の陣において真田信繁殿が編成いたしました。武田家由来の赤備えで編成した真田信繁の「赤備え」は、天王寺口の戦いで徳川軍の本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを行って参りました… #赤備え

2011-10-07 22:19:37
井伊万千代直政 @1561_naomasa

…とまあ「赤備え」に関する話をできるだけ簡単に余計なところは端折って話してきましたが、「赤備え」は実は他にもございます。実は、後北条氏に白・黒・赤・青・黄の五色の色備えがございまして「赤備え」は、北条綱高殿が担当していたそうです。#赤備え 

2011-10-07 22:22:38
井伊万千代直政 @1561_naomasa

他色は、白色を笠原康勝殿、黒色を多目元忠殿、青色を富永直勝殿、黄色を地黄八幡で有名な北条綱成殿が、それぞれ担当されていたそうです。北条五色備えに関しては、私が語るよりは此方には北条殿がお揃いになっているので、北条の皆様にお聞きした方がよいかと思います。#赤備え

2011-10-07 22:25:59
井伊万千代直政 @1561_naomasa

さて。それでは短い間ですが、簡単に「赤備え」についてお話させて頂きました。お粗末さまにございました。#赤備え

2011-10-07 22:27:51