- juliano1570
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話すべきか、話さないべきか。そりゃあそりゃあ迷ったけど、ぜひ、これからの世の皆様に知っていて欲しいのです。
2011-09-19 21:26:07だから、辛い話になるかも知れないので、無理せずね、読まないとか ブロックするとかしてください。 たぐ→ #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:29:11それまでの世と大きく変わったのは慶長19年、1614年のことです。1月に家康様が全ての宣教師と教会の破壊を命じます。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:31:5111月には、マニラ・マカオへの国外追放の船も出港します。この船にはマルチノとみんな大好きコンスタンチノ・ドラードも乗ります。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:33:43ミゲルは棄教して行方が分からなかったし、マンショはこの2年前に病気(だと言われていますが)で息を引き取っていたので、完全に僕はひとりぼっちでした。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:37:03僕はその後、口之津の教会に行くことが決まっていたのですが、そこの奉行の長谷川様が、まあ厳しい。たくさんの方が殉教しましたが、長谷川様も諦めたのでしょう、撤退するのです。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:39:02その隙に、って言ったら変かな、口之津へ行って、信者の方を励まして、教えを棄てた方に、もう一度、教えを心に刻むよう、促しました。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:41:03僕はここ以外にも、天草、八代、柳川、久留米、小倉も訪れました。足腰が弱っていたので、籠に背負われて行ったこともありましたっけ…。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:42:481625年に、フランシスコ・パチェコ神父が小倉に本拠地を置いたので、僕もその頃から小倉で活動しましたよ。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:44:131632年、キリシタンについて理解のあった細川忠利様が熊本へ移されてしまいました。そこで、同宿者であった、トーマスと共に捉えられてしまうのです。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:46:37その後僕は、長崎の『クルス町(現 桜町)牢屋』というところに送られます。ここ、結構有名だったみたいです。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:49:07その後僕は、長崎の『クルス町(現 桜町)牢屋』というところに送られます。ここ、結構有名だったみたいです。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:49:07この牢屋の中で、イエズス会の他の宣教師と一緒になりました。家光様のすごく徹底された弾圧のせいで毎日、多くの仲間が殉教しました。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:50:48棄教する代わりに領土をくれると言われても、拷問するぞと脅されても、一切動きませんでした。だって、僕のイエス様への想いはそんな軽いものじゃないし、教えを棄てずに死ねるなら本望だと思ったし。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:54:51ついに、1633年10月18日、その日が来ます。僕と7人の宣教師は西坂へ向かうことになりました。つまり、殉教です。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:57:12クルス町から、小川を下って西坂へのぼります。ゆっくり、ゆっくりと。足腰も弱っていたのでつらかった。イエス様の最期も、こんな感じで、ゆっくりゆっくり歩んだのでしょうか…? #ジュリアンの晩年
2011-09-19 21:58:50僕は穴吊りの刑でした。これね、きつく縛られて、穴にはめられて、逆さに吊るされます。全身の血が頭にたまってこめかみからたれるのです。すぐには死ねない。 #ジュリアンの晩年
2011-09-19 22:04:15