佐藤正美Tweet_20111001_15

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佐藤正美 @satou_masami

事業の「意味」を知りたいならば、ユーザが「情報」として伝達している言葉を観ればよい。ユーザ言語はユーザにとって伝達手段であるが、事業を分析するエンジニアにとっては「ロゼッタ石」である。その解読は、言(辞)から事に至るプロセスである。普段の言語生活でやっていることである。

2011-10-01 14:31:23
佐藤正美 @satou_masami

事業分析では論理は大して価値がないと云う SE が存するが、思い違いも甚だしい。論理で構成されたモデルが普遍的価値を持たないということは確かである。モデルはただ一つの事業体のためのものであり、その事業体に役立つのである。しかし、モデルの生成規則(論理)は普遍性を持っている。

2011-10-01 14:31:56
佐藤正美 @satou_masami

事業批評は楽だが、事業のありのままを観るのは難しい。われわれは批評する時、事実(事態の「関係」)を観るよりも遙かに多く事物(の「概念」)そのものを想像している。しかし、事業は、われわれが思い浮かべる「概念」で要約できるほどに わかりやすいものでもなく、語りやすいものでもない。

2011-10-02 10:59:25
佐藤正美 @satou_masami

「概念・言語・事物」の関係において、「概念」と「事物」を区別することはできない。「概念」の魔力は、対象(事物)を離れて論じても、想像力が事物の実体(本質、あるべき姿)を把握したと錯覚する点に存する。しかし、事業批評とは、竟に、「概念」を対象に透写する事ではないか。

2011-10-02 11:00:00
佐藤正美 @satou_masami

じぶんが作成できなくてもモデルを罵ることはできる。じぶんでモデルを作れなくても読みにくいモデルを作ったと言ってエンジニアを叱ることもできる。モデルを作るのは じぶんの仕事ではないからである。それはそれでいい。しかし、モデルを事業と対比して批評しないのは無益であろう。

2011-10-03 11:12:49
佐藤正美 @satou_masami

他人からの借り物(パターン)では無理強いの不完全なものしか手に入れることはないだろう。また、事業をどうあるべきかと考えて概念地図を作ろうと熱中している SE は、何かやれたとしても、じぶんの好きな「概念」を模倣したにとどまる。「独創」は不正確の口実に使われてはならない。

2011-10-03 11:13:28
佐藤正美 @satou_masami

スポーツの試合なら、弱いほうが時に勝つことがある。それは試合には実力と同時に、偶然の機会が訪れるからである。しかし、モデルにおいては、論理を欠落したモデルなど存しない。そして、モデルを作る技術においては、凡才から才人への序列はない。論理を遵守すればいいだけのこと。

2011-10-04 11:28:35
佐藤正美 @satou_masami

どんなに頭脳がすぐれて、多くの事例を知り、最新テクノロジーの知識があったにしても、じぶんの概念、独自の用語、固有な文法で事業の概念地図を描けば、いったいそれが何の役に立つのだ? 現実離れの想像図が一つ増えただけのことではないか。少々の想像力があればできる夢見にすぎない。

2011-10-04 11:29:01
佐藤正美 @satou_masami

パターンとは組織だった知識である。しかし、一たん何物かの体系を至理と思い込んだが最後、「現実」を見失ってしまう。先例に安んじ、「概念」に溺れる──たとえ、多量の例を学んでも、それは無学と同じであろう。頭の中の「概念」は、深遠に思われるが、外に出ると滑稽な姿を晒す。

2011-10-05 03:08:04
佐藤正美 @satou_masami

私の「概念」を現実的事態で験証すること、それが私にできるエンジニアとしての一番に有益な仕事である。「概念(あるいは、思想)」は、その対象を見つけた時はじめて完成される。形式の欠陥は内容を害なう。真なる値は形式(現実)に於いて実現される。モデルは、証言の形式である。

2011-10-05 03:08:45
佐藤正美 @satou_masami

モデル論は1930年代に登場した。理論は実用化されることによって、その身を危うくすることもあるが、しかしまた生命を帯びる。そうやってこそはじめて理論は活動的になる。一つの理論を学ぶことは或る考えかたを迎え入れることである。理論は一つの実践を促す。私はそれを忘れてはいない。

2011-10-06 00:42:50
佐藤正美 @satou_masami

モデル論に必要な考えかたは70年前に尽きていたかもしれない。我々はただ古い薪に新しい炎を点すだけであろう。天才たちが論じてきた事を実践する以外には我々凡人にはたぶん何一つ為すべき事は残されていないのかもしれない。技術を拡充するために理論を学ぶ、それがエンジニアの職責である。

2011-10-06 00:43:51
佐藤正美 @satou_masami

僅かの「概念」を起点にして事業を演繹しようとする! 私にはこれがたまらなく嫌なのだ、この演繹法というやつが。高い所からいったい何が見えるというのだ。今の仕事を何とかしなければならないという時に、なにもわざわざ遠近法を違(たが)えて大雑把な概念地図を描く必要もないじゃないか。

2011-10-07 01:26:52
佐藤正美 @satou_masami

聴く者には具体的に把握できず、語る当人も同様に具体的な形を指示していない。これが私(わたくし)概念で作成されたクラス図である。わずかな概念(あるいは、対象のない概念)で演繹法と称して何かを作ろうと工夫する。文脈のない概念の無意味さ・無益さは、ここから生まれる。

2011-10-07 01:27:41
佐藤正美 @satou_masami

本居宣長曰く、「世の学者、ことの疑はしきを、から書にしかしか見えたりと言へば疑はず信ずるは、いとをこなり。・・・その言よきにまどひてみだりに信ずべきにあらず」。「から書」を「英書」と読み替えてみればいいかもしれない。では、「から書」から一つ、「疑はざれば進まず」。

2011-10-08 19:11:06
佐藤正美 @satou_masami

よく認識している対象は明白に言い表すことができる。「事実」に対応する明白な形式──モデルを無矛盾で完全に(健全に)するのはエンジニアの才識ではなくて「論理」の力である。そして、いかに それぞれの事業は それぞれに個性的か、モデルを読み返して初めて気がつく。

2011-10-09 11:38:57
佐藤正美 @satou_masami

SE がモデル論を学ぶのは、数学の技術を教養として学ぶためではない。博識のエンジニアとなるためではないのだから、よく充たされた頭よりも寧ろよく考える頭を持つのに意を用いるべきであろう。三つを以て数える、事物・言語・概念。SE はユーザ言語を通してのみ事業の意味を知ることができる。

2011-10-10 00:50:39
佐藤正美 @satou_masami

すべてのモデルは、論理的であろうとそうでなかろうと、現実的事態(の意味)の分析を目標に構成される。ただ、われわれの曖昧な散漫な概念がモデルを不確かなものにする。モデルの第一原則は、このことを避けるために、すなわち「意味」を明白に把握するために、「形式(論理的構造)」を構成する。

2011-10-10 00:51:12
佐藤正美 @satou_masami

論理に遵って構成された形式は、無矛盾で健全である。しかし、形式を作ることは始まりにすぎない。いつも忘れてはならないことは、知る値打ちのあるものは、その形式の価値を読み取らねばならないということである。論理は形式を与えるが、その形式の有効性は論理の中では判断できない。

2011-10-11 00:49:32
佐藤正美 @satou_masami

「概念」に「文脈」を与えぬうちは、「概念」は「意味」を持たない。孤立した無色の「概念(クラス)」を使って理屈を列ねることを私は好まない。そして、収束しないまま拡散する「概念」の連鎖を私は追いたくはない。形式的構造は一つの閉包である。私は「文脈(特性関数)」を観たいのだ。

2011-10-12 02:36:34
佐藤正美 @satou_masami

私は独断家だと非難され続けて来た。私は独断に陥らないようにと「論理」を学んで来たつもりだが、私の文体(物言い)が独断的な響きを放っているのであろう。エンジニアの文は「客観的」でなければならないそうだ。だが「客観的な」文体とは一体何の事だろう。それは図式以外にはない。

2011-10-13 02:15:33
佐藤正美 @satou_masami

モデルの目的は「概念」の分析ではない。形式的構造を構成することにある──それは事業の「意味」を総体的に確認することである。そうでなければ、事態はあるがままに存するので、別種の形式に翻訳する価値はないであろう。そして、その価値の実現には、わずかの論理法則があればいいのである。

2011-10-14 01:43:32
佐藤正美 @satou_masami

モデルでは、すべては論理法則に遵って構成される。そして、「形式」の中に充足される値が真か偽か、それがモデルの「解釈」である。モデルにとって、ただ三つのプロセスしかない──認知すること(集める)、構成すること(並べる)、そして験証すること(真とされる値の充足)。

2011-10-14 01:44:10
佐藤正美 @satou_masami

モデルでは、一つの終点だけを私は確実に探す。それは、F-真である。問題は、ここからそこへ行く道にある。道は一つではない。一つの結論に至るまでに幾つものL-真を構成できる──それらの中でF-真は一つしか存しない。モデルは、畢竟、「F-真=L-真」を構成する技術である。

2011-10-15 16:01:26
佐藤正美 @satou_masami

事業の「現実」を形式化するということは、つねにモデルの半面でしかない。他の半面とは、現に確立された制度に逆らって、前へ進もうとする意欲(問題意識)という面である、環境変化に対して適応する意識である。ただし、「形式」を認識することなしに、「現実」の意味を問うことはできない。

2011-10-15 16:01:56