報いの時
最終回サブタイ「報いの時」。またもダブルミーニング。主人公・北条義時がこれまでの報いを受ける回であり、ようやく報われる回でもある。主人公が妻(のえ)と親友(三浦義村)と姉(北条政子)とに殺され、のたうち回る。壮絶な最期だが、どこか「報われた」気持ちにもなる。完璧な最終回。
2022-12-24 10:49:57各々との最後の対面。妻は(妻であることを止めて、ではなく)妻として見てほしかったがゆえに義時を憎み、友は(友であることを止めて、ではなく)いつまでも友であったがゆえに、義時に嫉妬した。義時の権力が、ではなく、義時という人間が彼らを動かしていた。義時は最後にそれを知る。
2022-12-24 10:49:5733話、運慶は「迷いが救い」だと語った。45話、義時の顔を「迷いのない」「つまらん」酷い顔だと評す。最終話、運慶に彫らせた自画像(顔は左右で歪み、13か12の穴が開いている)を切り捨てようとした時、義時に死が迫る。人には見せられぬ、という事は、彼はそれを真実の自画像だと認めている。
2022-12-24 10:49:57慈母として、ともに地獄に落ちる
最後の場面、義時は、姉・政子(と視聴者に)彼が「迷い=救い」を失くした理由を吐露する。息子・泰時のため「この世の怒りと呪いを全て抱えて、私は地獄へもっていく」と。政子と視聴者は、運慶が彫った義時の「真実」をすでに見ている。彼がそれを切ろうとしたことを知っている。
2022-12-24 10:49:58義時は自分を抉り、開いたままになっている13の穴、犠牲者の名を一人一人数える。ここで政子が頼家の名から、自分にかけられていた「嘘」に気づく。本作の政子は「稀代の悪女」ではなく「慈母」のごとくに描かれていたが、そうした政子の慈母ぶりは義時の「嘘」と表裏一体だった。
2022-12-24 10:49:58それに気づいた姉・政子は、「寂しい思いはさせません。私もそう遠くないうちにそちらに行きます」と、義時の生命を絶つ。47話の政子は義時の生命を救った。だが、47話までの政子では、義時と同じところ(地獄)には行けない。慈母が慈母であるがゆえに、慈母として地獄におちる。凄まじい脚本。
2022-12-24 10:49:59救いがないということ自体が救い
最終回は、一方で温みに満ちた(だが、基本的には第1話の北条家と変わらぬ)泰時達の団欒を映す。そのために犠牲になった義時の「孤独」が際立つが、上述の通り、最終回は、彼という人間が実は「孤独ではなかった」ことも、きちんと彼自身に見せている。泣ける。
2022-12-24 10:49:59坂口安吾は《モラルがないということ自体がモラル》であり《救いがないということ自体が救い》である地点から、文学は、否、人間は出発する、と語った(坂口安吾「文学のふるさと」)。私達は「せつなさ」という感覚を頼りに、そうした「人間のふるさと」を感知する。>aozora.gr.jp/cards/001095/f…
2022-12-24 10:50:00安吾が言うように、現身の人間は孤独ではない。救いも求められる。同時に、人間の生存(実存)は、孤独に苛まれている。救いがない。両者の絡まり、「救いがないということ自体が救い」を描くドラマは、私達の心を打つ。『鎌倉殿の13人』、最後までFARCEに満ちた、凄まじいドラマでした。
2022-12-24 10:50:00