大学に入学して比較的すぐの時期に出席したあるレセプションで、ある先生が「学部の教育は、みなさんに「読み書きできる」ようになってもらうのが目的だと思います」と発言されていて、当時の私は「それは目的が低すぎないか?」と思った記憶がある。この記憶を反芻しつつ考えることがいくつか 1/n
2022-12-26 10:54:54いまでも「それは目的が低すぎないか?」と思う部分はある。史学専攻なら、ある対象に即して歴史学の研究法を卒論作成を通じて実践してもらう。せめてそっちが目的だと言わなければ、「読み書き」ではあまりに一般的に過ぎてダメなんでは?と。2/n
2022-12-26 11:09:54だが振り返るに、当時の自分が何をどれだけ読めていたのかを考えると、恐ろしく読めも書けもしていなかった。当時買って何度も挑戦したがうまく理解できなかった本を、先日思い出して古本で買い直して読んだのだが、当時何が分からなかったのか分からないほど面白く読んだ。いま面白く読めるのは 3/n
2022-12-26 11:21:08その本の内容がソリッドで根本的には古くなっていないからだ。ともかくも、自分の能力を自分で測ることができていなくても、人はあれこれ言うことはできる。 4/n
2022-12-26 11:21:08「史学専攻なら、ある対象に即して歴史学の研究法を卒論作成を通じて実践してもらう」ということをやらせる立場になってみて思うのは、「高度な読み書き」の水準というのはあるのであって、それを卒論は要求するのだと。その意味ではあの先生が言っていたことも了解可能のように思われてきている。5/n
2022-12-26 18:53:15別に読み書き」を秘儀であるかのように扱う必要は全くない。しかし読み書きのスキルは、思われているほど誰でもマスターしているものではない。同じテクストを見ても、見えるものの解像度が人によってまったく異なっていることは、日々の教室で常に思わされることだ。6/n
2022-12-26 19:28:52また自分に「見えたもの」を人に伝わるように書けるかどうかについても、人によって明らかに差がある。話を聞くと「読めている」のに書いたものを出してもらうと、まったくその人の理解が伝わってこないことなどは珍しくない。7/n
2022-12-26 21:50:59(Twitterで巻き起こっている論争じみた言い争いも、書き手の側に、言いたいことを適切なレベルで言うスキルがなかったり、読み手が言われてもないことを読み込んでいたり、そういう読み書きのスキル不足に由来することは多い。もちろん、それに加えて、悪意で理解を捻じ曲げる奴らもいるし。)
2022-12-26 22:14:55読むと理解の関係の例: 「魔女がいた」と(17世紀の)人物Aが記した史料を読んだ時に、私たちが認識すべきは「「魔女がいた」とAが述べた」という事実である。でも、こういうふうに認識するのは意外と難しいらしい。けっこう多くの人は、魔女が「本当に」いたかどうかを考えてしまう。 9/n
2022-12-27 13:10:41もちろん「魔女」なる存在について考える必要はあるが、「とAが言った」という事実がそれ以上に重要だ。というのは、ここでは「魔女」の存在はAの認識を媒介にしてしか私たちには伝わっていないからだ。しかし「魔女」という存在に関心がありすぎるからか、ついAを消して考えてしまう。10/n
2022-12-27 13:26:34「「魔女がいた」とAが述べた」 ことと、「魔女がいた」ことのあいだには考えねばならぬことがある。たとえば以下のツイートを参照。11/n twitter.com/urots427/statu…
2022-12-27 23:26:19「魔女がいた」と書いた人がいたことは確かだけど、その人が本当に存在を信じていたか否かも確定できないし、書いた人の認識が当時の人々の認識と一致してるかも分からない。そのことはそのことで、別の史料などで補うことが可能なら、推測の蓋然性が高まるだろうけど。
2022-12-27 15:20:12「魔女がいた」と書いた人がいたことは確かだけど、その人が本当に存在を信じていたか否かも確定できないし、書いた人の認識が当時の人々の認識と一致してるかも分からない。そのことはそのことで、別の史料などで補うことが可能なら、推測の蓋然性が高まるだろうけど。
2022-12-27 15:20:12他方で反対意見の蓋然性を否定する史料を示すことができるとモアベター。どっちがマシな解釈か、というレヴェルで争うしかない。
2022-12-27 15:21:40ここで必要な「理解」のスキルとは、史料のなかに「魔女がいた」と書いてあることを「読む」ことだけではない。「魔女がいた」「とこの史料の書き手Aは書いている」の後半、つまり史料の「中」には書かれていないが、史料と、それを読む私たちを繋げる要素を補う能力である。 12/n
2022-12-27 23:27:04さらに続けることができる(この17世紀の史料を検討した先行研究論文という要素をいれると… など)が、要するに、歴史学の論文を書こうとすると、過去のテクスト、先行研究、現在の書き手などの複数の時間の距離を扱う必要があり、これらの距離を理解し表現するスキルが必要だということだ。13/n
2022-12-27 23:53:43これは、日常的読み書き能力と地続きであるが、日常的読み書き能力よりは多くのスキルを要する読み書き能力だろう。これはある程度、歴史学(隣接諸学含)に特徴的な能力でもある。これが「専門性」の一部であろう。14/n
2022-12-28 00:14:43上記のような、歴史学に用いる高度な読み書き能力というのは、さまざまに応用が効くものだと思うが、万能なものでもない。例えば、分析哲学や論理学のテクストを論じるのには、関連していても別の読み書きスキルとそちらの知識が必要なことは明らかだ。当然そちらにはそちらの専門性がある。15/n
2022-12-28 10:32:30冒頭の 1 に戻れば、あのときの先生が「読み書き」をどういう意味で言われていたのかを知る術はない。しかし、当時大学1年生の私が「読み書き」をナメていたことは間違いないし、おそらく世間でも同様に軽く見ている人は多いのだろう。 16/n
2022-12-28 11:51:31確かに、学問分野の専門性が要求する読み書き能力は万能なものではない。しかし、広範囲に応用可能な、かなり高度な言語運用を訓練する場が学部レベルである、ということを意味されていたならば、あの先生に同意できる。考えるとあの記憶を30年以上反芻してきたことになる。17/17
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