「虚構」という言葉には、フィクションや仮構といった芸術作品を示す意味の他に、「事実ではないことを事実らしくつくり上げること」というより広い意味がある。だとすれば、この世界が虚構でないと誰が断言できるだろうか。
2011-10-01 17:08:10既成事実というのは、既に成された事実だから問わないのではなく、既に成されてしまった事実だからこそ問い続けていかなければならないのだ。
2011-10-05 15:38:06生きるか死ぬかの瀬戸際に常に立たされていたアウシュヴィッツでは、感情を押し殺して状況に慣れることが生き延びるためには是非とも必要だったはずだ。だが、生きるか死ぬかの瀬戸際が常に先送りされている現状では、感情を押し殺して状況に慣れることは、生き延びることから遠ざかることを意味する。
2011-10-13 05:04:19デモが許可されていない国や許可されていても事実上できない国々において、デモは即座に反政府活動とみなされる。けれども、デモが比較的自由にできる国々でさえ、デモにそれ相応の社会的影響力があるとみなされれば、容易に反政府活動とみなされてしまう。つねに正念場であることを忘れてはならない。
2011-10-02 14:21:01「先進国」であろうとなかろうと、「社会の秩序を守る」という名目で、市民の市民による市民のための活動範囲を制限することになんの躊躇も覚えない点では同類である。
2011-10-02 15:30:15具体的な暴力がどうということ以前に、暴力=絶対悪という前提から出発してしまうと、国家権力があたりまえのように発動する悪しき暴力を否定し批判することは永久にできなくなってしまう。
2011-10-21 04:41:21民主主義国家は、国家権力が発動する暴力をソフトなものに見せかけることに巧みであるがゆえに、前近代的な国家に対する以上に権力批判を難しくさせているように思われる。言い換えると、政権批判はいくらでもできるが、国家批判は往々にしてタブー視される。
2011-10-10 03:19:43とりわけ20世紀の後半以降、国家そのものの存在を越える理想が失墜してしまったのは、共産主義への幻滅だけでなく、国家自体がナショナリストにとって偶像崇拝の対象になる一方で、多くのノンポリ国民にとってはたんなるアクセサリーか空気のようなものに成り変わってしまったからなのだろう。
2011-10-10 03:40:41「自由主義国家の理想に典型的な形でコミットする者でさえも、国家が一つの事業(プロジェクト)であるという点は認めるだろうし、またそうすべきである。」(ジョナサン&ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力』)
2011-10-10 03:44:04脱原発デモの主張の一つには、これまでの原発レジームで甘い汁を吸うだけでなく苦い汁を垂れ流してきた差別や格差の構造に対する異議申し立ても含まれている。そう考えれば、ウォール街占拠デモに対する私たちの共感はごく自然な反応と言える。
2011-10-04 16:16:51アメリカのデモはまるで他人事に思えませんよね。きっとあそこでデモしてるような人々の多くも、本格的にデモなんてしたことないような連中なんじゃないか、って想像するととくにそう思えてきます。まともなデモ文化を知らない世代のデモゆえの意義深さ、みたいな。@bcxxx
2011-10-05 02:00:40あと、昨日の記事で「米国の19歳から25歳の40%以上は職がない一方で、現在の混乱を招いた「金融界の詐欺師たち」(ラースン氏)は安泰だ。」という一節を読んだのも大きかったかもしれません。まるで日本と同じような状況じゃないか、と。@bcxxx
2011-10-05 02:03:10みなネクタイをしめるようになった70年代、浮かれ騒いだ80年代、欺瞞に満ちた90年代、狂いに狂った2000年代を経て、いま我々が生きている2010年代は、異議申し立ての時代であった60年代の再来と言えるのではなかろうか。
2011-10-05 02:59:31