野矢茂樹「語りえぬものを語る」読書ノート
1.猫は後悔するか:「論理空間・分節化された世界・分節化された言語、これらはすべて厳密に同時に成立する」。現象を分節(対象と関係)化して人は理解する。逆に、分節は論理空間(語り得るもの)を切り開く。野矢茂樹は「語り得ぬものについての沈黙」を自著「語り得ぬものを語る」の出発点とした
2011-10-23 12:18:212.思考不可能なものは考えられないか:「私は私自身の論理空間と異なる他者の論理空間を考えることができない。これが『論理哲学論考』の独我論にほかならない」が「私の論理空間は決定的に私のこれまでの経験に依存している」。だから「私は、この独我論を拒否したいのだ」と野矢は書いている。
2011-10-23 12:36:433.世の中に「絶対」は絶対ないのか:「相対主義それ自体はなんらかの絶対性をもたねばならない」「相対主義は、いっさいの主張を相対化しようとする力」「その意味で、相対主義は語りえないのである」。相対主義は主張ではなく、その正しさが検証不可能だ。それが証拠に俺がいつか死ぬのは絶対なり。
2011-10-23 13:30:554.真理の相対主義は可能か:真理の相対主義とは同一意味の主張の真偽が文化によって異なるとする考え方であるが、「真理と意味は密接に関係している」から「真偽において評価が正反対であるのに、どうして両者が同じ内容のことを意味していると言えるのか。これが、真理の相対主義の根本的な問題」。
2011-10-23 13:54:535.霊魂は(あるいは電子は)実在しうるのか:「経験超越的な実在は、あくまでもなんらかの立場にとっての実在」「神が存在するのもしないのも、電子が実在するのもしないのも、それぞれにとって本当だ」。数も経験超越的な実在だから、数が存在しない世界も本当だ。実在こそも経験超越的概念だろう。
2011-10-23 19:01:256.行く手に「第三のドグマ」がたちはだかる:クワインの枠組と内容の二元論へのディヴィドソンの批判。「『概念枠が処理する以前の、組織化を待っている何か』とは、理解不可能でしかないと断罪する」。ここで言う内容を俺は現象と解する。枠組(理解)と内容(現象)の二元論のどこが悪いの?
2011-10-24 13:33:197.ドグマなき相対主義へ:「概念枠は何かに意味を与えるのではない」「世界はさまざまな相貌から成る。その相貌を担う何ものかなど、必要はない。何かが相貌をもつのではなく、たんに相貌があるのである」。相貌=現象+意味ということ。世界は最初から意味を帯びている。純粋経験なんか無いんよ。
2011-10-24 15:07:148.相対主義はなぜ語りえないか:「どんな概念枠も、どんな観点も、どんな相貌も、その内側に立つ者のみがそれを理解する。しかし異なる概念枠はまさに外側にあるからこそ、異なる概念枠なのである」。概念枠は世界の限界なのだから相対主義は語りえないと解する。ところで、概念枠=論理空間?
2011-10-24 15:16:059.翻訳できないものは理解できないか:「翻訳不可能であっても習得可能な場合がある」。例:碁における「厚い」「薄い」。「ある概念は経験の多寡、あるいはそれに伴う洞察の深浅に応じて、その概念のもつ内実が異なりうる」。ところで、論理空間=概念枠+対象(個体)+関係のようだ。
2011-10-24 15:47:2810.翻訳可能でも概念枠は異なりうる:「なるほど、牧畜民たちの言葉は日本語に翻訳できるかもしれない。しかし、彼らが使いこなしている言葉が、われわれにはとても使いこなせないような日本語に翻訳されるかぎり、それは翻訳可能ではあっても、異なる概念枠をもった異なる言語」と言うべきだろう。
2011-10-25 09:39:5311.そんなにたくさんは考えられない:行為空間(私の行為に関わる可能性)+世界像に反する概念+習慣外の概念+所有してない概念=論理空間(論理的可能性の総体)。財布の中の札はひとりでに増えない(世界像)、地雷を気にして歩いてはいない(習慣)、碁を知らないから厚みが判らない(所有)。
2011-10-25 10:02:4312.一寸先は闇か:「われわれは行為空間の中で証拠の支えを信頼するのであり、行為空間そのものは証拠によって支えられたものではない。それはわれわれはの根拠なき生き方にほかならない。われわれは、一寸先は闇の論理空間の中で、一寸先は闇ではない生き方をしている」。斉一性の原理に根拠は無い
2011-10-25 18:02:1913.ザラザラした大地へ戻れ!:「論理空間は<神>の住み家であろうが、しかし、論理空間は<人間>が張るのである。本性と習慣によって囲い込まれた行為空間において初めて、「以下同様」という言葉は効力をもつ。そして「以下同様」の力によって初めて論理空間は形成される」。例:自然数の全体
2011-10-25 18:31:4414.意味がないという話:「無意味論は、言葉が意味をもつことを否定する。より正確に言えば、「言葉の意味」と呼ばれるような何ものかわ想定することを拒否する。そしてその代わりに、「意味理解」について語ろうとする」。「鳥」という語に意味はない。何が「鳥」か否かと言えることが意味理解だ。
2011-10-27 12:38:4515.意味はない、しかし相貌はある:「どの対象に「犬」という語を適用してよいのか、「犬」という語を含んだ発話によってどういう反応を聞き手に引き起こせると期待してよいのか、そうした言語的な技術知が対象に投影され、その結果その対象は犬の相貌のもとに現れる」言語技術が相貌を成立させる。
2011-10-27 16:00:3216.懐疑論にどう答えればよいのか:「懐疑論は、頭では分かるが体がついていかないような可能性をあえて示すことによって、われわれの行為空間の外を示唆する」「われわれのこの行為空間は唯一絶対のものではない。他の行為空間もありうるし、われわれ自身変化する可能性もある」と受け止めよう。
2011-10-27 16:26:4917.語ることを、語られぬ自然が支える:「『以下同様』ということで、われわれはさらにこう言いたいのである。『あなたのこれからやることは、いま与えられた説明の観点から適切さが評価され、不適切ならば訂正されることになる』これこそ、『以下同様』がもつ規範的意味にほかならない」。斉一原理
2011-10-27 17:00:0518.私にしか理解できない言葉:「私的言語とは、公共言語から完全に隔絶された私的孤島なのである。それは、概念の成立基盤を破壊しさった不毛の土地に概念を打ちたてようとする、不可能な幻想にすぎない」その理由は、詩的言語が、言語実践を支える「語られない自然」と隔絶しているからだろう。
2011-10-27 17:28:3419.本質的にプライベートな体験について:「物自体に触発されて経験が成立するように、非言語的な体験に触発されて分節化された体験あるいは分節化された世界が成立する」「言語は、あるいは言語的に分節化された体験や世界は、非言語的な体験の海に浮かぶちっぽけな島にすぎない」音楽体験も海。
2011-10-28 11:46:1019の註/二元論:「別に『二元論』を自称してもかまわないが、それは枠組と内容の二元論ではない。あえて言えば、力と相貌の二元論(語らせる力と語り出される相貌との二元論)である」。単純に、現象(物自体)と相貌→行為空間(論理空間)の二元論と称すればいいような気がするけど。二元論鬼門か
2011-10-28 11:51:5220.語られる過去・語らせる過去:「過去における非言語的体験を『過去自体』と呼びたい」「過去物語は過去自体に触発されて成立する。だが、過去自体を『過去』自体とするものは、過去物語なのである」。過去自体は存在すると野矢は言うが、過去自体は物自体と同様の意味で「存在」するのだろうか?
2011-10-28 15:18:4921.何が語られたことを真にするのか:「知識は、行為を通して世界と接触し、交渉する。そしてそれは非概念的・非言語的なものにほかならない」「首尾よく泳ぎきれたならば、知識は信頼性を増す。溺れてしまうならば、知識は再点検されねばならない。まさにこのようにして、<続く>
2011-10-28 15:44:3521.何が語られたことを真にするのか(続き):「『語られないものが語られたことを真にする』のである」「観察文は無根拠」だが「『語られないものによって真にされる』というよりも、『語られないものによって偽にされる』」と言った方がよい。観察文は物自体に触発されるから無根拠ではないと思う
2011-10-28 15:51:4122.何を見ているのか:「知覚は。意識的であれ無意識的であれ。概念的なものをともにもっている」「概念的な知覚、すなわち相貌は、このように非概念的なニュアンスや表情をまとって現われている」。『クラリネットの音色を表現する言葉を俺は持たない』から至極当然な結論だと俺は思う。
2011-10-29 11:29:2123.言語が見せる世界:「概念を理解するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語を理解すること」「相貌とは、あるものをある概念のもとに知覚すること」「相貌を知覚するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語をそこにこめて知覚すること」要するに全てはコト、従って固有名もコトなのだ。
2011-10-29 11:52:57