論考「国衆から見た関ヶ原」

ただの雑文。 いつものWBPC問題とは無関係
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鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

あー、もう大河何年も見てないが、家康といえば、俺前の垢だったかで、国衆から見た関ヶ原合戦の論考書いたんだよ。 ログ保存しときゃよかったなぁ……

2023-02-05 19:32:20
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

うろ覚えの記憶でざっくり言うと、豊臣政権によって行われた石高制というのは、たとえるなら明治初年におこなわれた廃藩置県に匹敵する社会制度の変革で、要は土地を石高という代替可能な価値に置き換えることで、先祖代々土地と不可分に結びついてきた武士階級、すなわち国衆の解体を図ったものなの

2023-02-05 19:36:32
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

石高制が導入されたことで、豊臣政権は大名や武士の転封が容易に行えるようになった。 加増してやるから、おまえは田舎に行けといって、政権にとって危険な大名を畿内近国から遠ざけることが可能になったわけだ。

2023-02-05 19:42:00
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

三成と家康の対立を、奉行派と武断派の対立として見るのは、上記の視座が欠けていて、実際には石高制を推進する改革派・三成と、石高制に反対する守旧派を取り込んだ家康との闘争だったのね

2023-02-05 19:42:15
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

こういうと意外に思われる人もいるかもしれない。 なぜなら当時の家康の配下、東軍には加藤清正、福島正則をはじめ、豊臣恩顧の武将が数多く参陣していたから。

2023-02-05 19:43:53
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

しかし、これが関ヶ原の東西両軍のおもしろいところで、元々豊臣政権で「取次」という、いわば外務大臣のような仕事を長らく担ってきた三成は、毛利、上杉、島津といった外様大名からの支持が厚かった。 三成に人望がないなどというのは関ヶ原以降、西軍大名が家康に言い訳するためにでっちあげた方便

2023-02-05 19:46:47
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

実のところ、西軍方の毛利も上杉も島津も、先述の国衆たちのあつかいに困って、領国改革のために三成から政治的なアドバイスをおおいに受けていた。

2023-02-05 19:48:06
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

くり返しになるが、国衆というのは先祖代々、石高ではなく、どこそこ村や郡などの領地を与えられた武士であり、いわば小なりといえど自立した武士だったから、国衆をとりまとめる大名が頼みにならんとなれば、別の大名に寝返りすることが、戦国時代には多々あった。

2023-02-05 19:51:34
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

こういう土地持ちの、独立自営の武士層を解体し、後の幕藩体制における「藩士」のように、大名から扶持米をもらって暮らす家臣、言ってしまえば寄生的身分にしてしまうのが石高制の目的であった。 たとえば信州真田家みたいにコロコロ主君変えるような国衆ではなく、大名にとって統制しやすい家臣を

2023-02-05 19:54:29
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

統制しやすい家臣へと作り替えることが目的。 そして、これらの石高制というのは、実際のところ織田家と、その跡を襲った豊臣家においてはごく自然と導入された制度であった。 次々に旧来の戦国大名を攻め滅ぼし、領地を拡大していった織豊政権においては、転封は当たり前だったから

2023-02-05 19:57:26
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

ゆえに豊臣恩顧の大名である、加藤清正らはそもそも最初から領国内に国衆を抱えない新型大名であり、国衆の統制に頭を悩ませる必要がなかった。 同時に石高制のありがたみを実感することもなかった。 特に加藤清正なんぞは、本来なら佐々成政に一生感謝しなければならなかった

2023-02-05 20:01:02
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

なぜといって(これは秀吉の策略だろうが)清正の領国の肥後熊本は元来「国衆の国」と言われるほど、大名の統制を嫌う小規模武士団が盤踞する土地柄で、先にこの土地を任された成政は、まんまと国衆の懐柔に失敗して一揆を起こされ、これが理由で秀吉に切腹させられてしまった。

2023-02-05 20:04:33
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

が、そもそもわざと国衆に一揆を起こさせ、それを理由に国衆を一気に鎮圧することこそが秀吉の狙いで、いわば成政は都合のいい当て馬に利用されたわけ。 その後国衆を鎮圧した清正は、地元の武士の抵抗にあうこともなく、難なく肥後を治めることができた。 これこそ石高制、ひいては国衆解体の恩恵

2023-02-05 20:06:44
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

しかし、所詮武断派の清正や政則は、秀吉や三成のそうした高次元の体制づくりをおそらく終生理解できなかったのだろう。 朝鮮征伐で恩賞にありつけず、かつ事務方として出世する三成に敵愾心を抱いて、まんまと家康に取り込まれてしまった。

2023-02-05 20:09:52
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

一方、三成の偉大さを実感したのは、むしろ非豊臣系の外様大名たちであった。 彼らは秀吉の家臣として立身したわけではなく、元々地方の大名として秀吉に臣従した大名であったから、領国体制は旧来の戦国大名のまま。

2023-02-05 20:12:21
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

つまり、国内に大名ではなく土地に依存する、利害を超えた譜代の家臣とは異なり、利害の一致によって大名に従っているだけの国衆を多く抱えていた。 これら外様大名にとって国衆はまさに悩みの種。 なんとかして国衆を解体し、豊臣大名のように体制改革を行いたいと考えていた

2023-02-05 20:14:07
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

そんな折りに、三成がいわば政治顧問のような恰好で、外様大名になにくれとなく指南してくれたおかげで、外様大名は三成の元で国衆解体にいそしもうとした。 その矢先に起こったのが関ヶ原の戦いというわけである。

2023-02-05 20:16:13
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

さて、では関ヶ原の戦いの後、家康はどうしたかといえば、反三成派として、いわば守旧派の国衆層の支持を得て、関ヶ原に勝利したにもかかわらず、いざ自分が幕府を開くと、たちまち幕藩体制を敷き、国衆を解体してしまったのである。 幕藩体制なんぞ、完全に三成の石高制のパクリにすぎない

2023-02-05 20:18:14
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

これは幕末期において「尊皇攘夷」をスローガンに倒幕した明治政府が、フタを開けてみればあっさり宗旨替えして「開国」に踏み切ったのとまったく同じ構図。 そして戊辰・西南戦争を通じて「武士」という旧来の身分を解体した点においても同じである。

2023-02-05 20:21:11
鯨酔 @miBR6n0oaKubbDj

家康が豊臣政権をパクって幕藩体制を敷き、徳川幕府を作った意趣返しを、250年越しに、かつて西軍方として負けた薩長がまったく同じやり方でやったというのは、歴史の壮大な皮肉と言っていい

2023-02-05 20:23:48