佐々木敦「ひとは読みたいようにテクストを読む」 言表の真理性と表現者の態度
「思想」の國分功一郎「ドゥルーズの哲学原理(1)――自由間接話法的ヴィジョン」読んだ。連載なのでまだ取っ掛かりだが、非常に明快。「政治的ドゥルーズ」と「非政治的ドゥルーズ」の対立は何故生じるのか。これはドゥルーズの特異性を論じているのだけど、同様のことは他の哲学者にも結構言える。
2011-11-02 13:51:32哲学に限らないが、まず第一に、ひとは自分が(無意識的にであれ)読みたいようにテクストを読む、自分が読みたい内容を可能な限り(幾らでも?)テクストから引き出す引き出せる、という真理がある。そしてこの「読みたい」「引き出したい」は、個々の属する様々なコンテクストに条件付けされている。
2011-11-02 13:53:59裏返せば、同じテクストから、受け取る側の個人や時代や場所によって、まったく異なった、時には正反対でさえある内容や主張が引き出されるという事態は頻繁に起こっている。「政治的な時代」においても「政治的な人間」と「非或いは反政治的な人間」がいて、「非政治的な時代」においてもまた然り。
2011-11-02 13:58:52ひとは読みたいようにテクストを読む。読んでしまうし読めてしまう。ここに、僕が『批評とは何か?』とか方々で言ってきた「ひと(広義の芸術家、表現者)は自分が何をしているのかを完全にわかってはいない。だから批評という行為の必要性と必然性がある」という真理をプラスすれば一丁上がりである。
2011-11-02 14:04:52原理論と状況論は完全には区別出来ない。原理を問う姿勢からも状況へのコミットメントは見出せる。たとえばカントだって、「永遠平和のために」なんかとは成り立ちからして違う、あくまで原理論として書かれたものだろう批判三部作を「政治的」に読もうとするアレントや柄谷のような人がいるわけだし。
2011-11-02 14:07:53國分さんは『暇と退屈の倫理学』で、ボードリヤールについて似たような指摘をしていた。僕が『ニッポンの思想』の80年代の章で述べようとしたことも、要するに当時のバブルでポストモダンなバイアスとフィルター抜きに、ヨーロッパの現代思想が受け入れられることはなかった、ということだ。
2011-11-02 14:12:04たとえば消費社会のメカニズムをクリアに分析してみせることと、そのような社会に対して如何なる個人的価値判断を持ってるかは別問題である。ところが、ひとはプレーンな、出来る限り客観的足ろうとしているような分析の中にさえ、書き手の何らかの立ち位置、スタンス、意見表明を読み取ろうとする。
2011-11-02 14:14:40そして繰り返すが、その読みは結局のところ、どこまでも恣意的で個人的で相対的なものである。従って多くの場合、そのような読みの結果は、テクストそれ自体やテクストの書き手の真実よりも、読み手自身の姿を反射している。
2011-11-02 14:16:33それゆえにこそ、賢しらな書き手は「パフォーマンス」に精を出すのだ。テクストの外部で稼働するパフォーマンスは「そう書かれてはいない(かもしれない)が、こういうつもりである」という含意を提供するものだからだ。テクストにパフォーマンスを被せることによって、読み手の受容を操作するわけだ。
2011-11-02 14:20:04だが、ここで断っておきたいのだが、かといって僕自身は、だから「批評」という行為は、恣意性と相対性と個人性を最初から織り込み済みでやるしかないものなのであって、自分もそうしている、とは必ずしも思っていないのだ。いや、結果としてはそうなるしかないのだけど、そのつもりで書いてはいない。
2011-11-02 14:37:18僕が最悪だと思うテクスト論は、結局のところ真理など何処にも存在しないのだから、自分が書いていること、主張していることも、要するに「こうも言える」というひとつでしかない。後はそれを巧妙に言えているかどうかであって、それが真理であるなどとは、こちらも思っていない、といった態度である。
2011-11-02 14:40:55宮沢章夫さんの『トータルリビング』に、沼野という登場人物が出てくる。彼は文学も映画も演劇も音楽も書いていて、まっとうな研究者ではない、ただのライター上がりで、いろんな雑誌に評論を書いていたら大学から声が掛かったので教えてもいる、という、どこかの誰かを否応無しに想起させる男である。
2011-11-02 14:46:41沼野はこんなことを言う。「べつに難しいことを書こうなんて思ってないさ。大学でも大したこと話してるわけじゃない。みんな冗談かもしれない。いいかげんだよ、評論でもなんでも、よく読めばみんなでたらめなんだ」。前半はともかく、僕は自分が書くことを冗談ともでたらめとも思っていないのだ。
2011-11-02 14:49:39僕は、ああも言えるしこうも言えるのだが、とりあえずここではこう言っておく、だがその言表の真理性をそもそも私自身が信じてはいないのだ、といった態度が大嫌いだ。たとえ読まれた時には無限の相対性と恣意性に投げ入れられるにしても、書く時には、自分にとってはこれが真理なのだと信じている。
2011-11-02 14:52:16それに見回すと、まさにパフォーマンスによって自身の主張の正当性と権威性、権力性を強固にしていきながら、しかし隙を突かれたら「いや、これは別に正しいとは自分でも思ってない。冗談かもしれないしでたらめかもしれない」とか言って逃げられる余地を残すズルがまかり通っているようにも思うのだ。
2011-11-02 14:57:07僕はそういうのは厭だ。そういうことはしない。まず、他でもないこれ、を提示する。その上で、これとは違うあれやそれ、に対する許容と寛容を保持する。この二段階はけっして矛盾しない。「僕はこう思う」と「君はそう思う」のあいだにあるのは、対立ではなく両立であるべきだ。
2011-11-02 15:00:27