2011年11月3日

事前のアート

『アートにかかわる者がいま考えなければならないのは、「被災地に対して何ができるか」だけでなく、ほかでもない自分自身が、次の大規模被災の前に立たされ、自身の表現が「危機」の前にあることに根ざした、いわば「事前のアート」だ。』いう椹木 野衣(@noiue)さんの一連のTweetをまとめました。
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椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

1)被災地に対して何ができるかと問うアートは、結局「事後のアート」なのだろう。被災者を勇気づけたり、癒したりするのもアートの大切な役割だが、このような出来事を単なる記録や写真に留まらず、後に伝えうる作品としていかに残せるか。それを考えるのが、他にできぬアーティストの仕事だろう。→

2011-11-02 07:55:03
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

2)僕らはあの大津波の「あと」にいるから、アートに何ができるのか、と考えてしまいがちだ。しかし、結局それは無傷な者の論理だ。すべてが失われた場所で有効な表現を為そうとするなら、みずからが培って来た方法も傷つかずにはおられない。過酷でも、そこにこそ前進の機会があるはずだ。→

2011-11-02 07:58:07
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

3)アートにかかわる者がいま考えなければならないのは、「被災地に対して何ができるか」だけでなく、ほかでもない自分自身が、次の大規模被災の前に立たされ、自身の表現が「危機」の前にあることに根ざした、いわば「事前のアート」だ。当時者性が必要なのだ。→

2011-11-02 08:05:04
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

4)僕らは、あの大津波の「あと」にいるのではない。むしろ、次なる巨大な地震や津波の「まえ」にいる。日本列島という、過酷な自然災害に繰り返し見舞われてきた場所にいる以上、地震も津波も必ず、またやってくる。僕らと同様の過酷な未来を生きる者たちに届く芸術を、いかにして生み出しうるか。→

2011-11-02 08:12:04
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

5)むろん「事前のアート」とは別の表現の可能性もありうる。かりにそれを、ここで「渦中のアート」と言っておこうか。ちなみに、今回の震災にいち早く反応したのは、写真家たちだった。その中には注目に値するものも少なくない。しかし写真の性質上、それらはすべて「事後のもの」であるほかない。→

2011-11-02 08:17:54
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

6)けれども、アートは「事後」であってはならない。それは地震や津波の「渦中」で起きた、決して記録に残すことができない出来事に、想像力で肉迫する必要がある。流されて亡くなった人の最後の思いを写真に写すことはできない。しかし真のアートなら、それができなければならない。→

2011-11-02 08:21:32
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

7)そんなことは不可能だ、と言うかもしれない。しかし戦時中の藤田嗣治は、与えられた使命が戦争の「記録」画であったにもかかわらず、見ることが不可能なアッツ島やサイパン島での玉砕を、想像力と報道を頼りに描き、傑作を世に残した。それは写真には残らない、まさに「渦中の絵画」であった。→

2011-11-02 08:25:16
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

8)アートには「事前性」と「渦中性」が求められている。ワークショップやチャリティを行なう「事後」のアートは、確かに即応性は持ちうる。けれども、アートはむしろ遅延することで「事前性」や「渦中性」を表せなければならない。「美術批評家」として津波被災地をまわることで、そう僕は考えた。→

2011-11-02 08:36:41
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

9)けれども、これと福島を全く同列に据えることはできない。それはまさに過酷な原発事故の「渦中」であって、放出された核種の半減期を考えれば、本当の「事後」を、今生きる者は目にすることができないかもしれない。福島についてアートを考えるなら、津波の被災地とは別の構想力が必要となる。→

2011-11-02 08:41:44
椹木 野衣 Noi Sawaragi @noieu

10)さて、さすがにそろそろ中断しないと。いずれにせよ、福島には、南三陸町で得た縁を手繰って、近々直接入ることになりそうです。そこで考えたことについては、またこの場を借りて、ごくスケッチ的につぶやくこともあろうかと思います。(ひとまず了)

2011-11-02 08:45:03

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