現代美術作家・宮島達男さんの「アートと言葉」と、現代美術作家・水野亮さんの「アートと言葉」

両者のツイートに直接のかかわりはありませんが、近いタイミングで通底するお話をされていたので引用させていただきました。
アート tatsuomiyajima drawinghell
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宮島達男 @tatsuomiyajima
アートと言葉ー1. 今日、油画科の学生から質問、「アートに言葉は必要か?」大切な問題なので少々考える。もちろん、言葉で表せないからこそ、ビジュアルで表すわけだし、視覚で完結していなければ作品としては失格だろう。しかし、作家としては、「言葉」は考える事と同義で重要である。
宮島達男 @tatsuomiyajima
アートと言葉ー2. これは「言葉」によって作品を説明したり、補完したりすることとは全く違う。作家自身が、何を伝えたいのか、彼の世界観、哲学、コンセプトを自分の言葉で確認するために必要なことなのだ。でないと、作ったモノに作家自身が騙されるから。
宮島達男 @tatsuomiyajima
アートと言葉ー3. だから、アーテイストの「言葉」は具体的事物と結びつかないし、ハッキリ言って、良くわからない。それは、アーテイスト自身が自分の掴んだ世界観やイメージに、勝手な名前を付けているようなものだからだ。例えば、ボイスの「ユーラシア」やセザンヌの「サンサシオン」など。
宮島達男 @tatsuomiyajima
アートと言葉-4. でも、彼らの言葉は確信に満ち、私達に伝わる。それは、彼らがその世界を強烈に見て、考え、言葉に置き換え、より確かな目標としているからだろう。言葉で考えられた目標は、強度を増し、その世界観はブレない。だから、それは作品をジャッジする大切な指標となるのだ。
宮島達男 @tatsuomiyajima
アートと言葉-5. 逆に、「アーテイストは絵だけ描いていれば良い」という人がいる。それはサルだ。作品は、時に美し色を生み、美しいカタチを表すことがある。そして、アーテイストは自分で描いたものは、なかなか壊せない。たとえ、自分が目指す方向とは違ってもだ。作品に騙されるとはこのこと。
宮島達男 @tatsuomiyajima
アートと言葉-6. そんな時、「言葉」がモノサシとなる。もちろん、その「言葉」は世界観そのものではない。しかし、自分が考えて近づいた指標ではある。だから、その世界観、思想、コンセプトにもう一度、立ち返れる。自分が作ったモノをジャッジできるのだ。

現代美術作家・水野亮さんの「アートと言葉」(畠山直哉展「Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」と「作者が自分の作品について語ること」の意味 http://togetter.com/li/208546

水野 亮(3) @drawinghell
畠山直哉展の感想、ケッキョクここに投稿することにしました。全部で26ツイートあります。一気に投稿するため一時的にTLを占拠することになるかもしれませんが、失礼しますm(_ _)m
水野 亮(3) @drawinghell
1)作品と言葉の関係についてはずっと関心があって、とくに「作者が自分の作品について語ること」に関してはいろいろと思うことがある。それはものすごくセンシティブな問題だと思うのだが、概して粗雑に扱われがちな議題でもある。
水野 亮(3) @drawinghell
2)「自分で自分の作品を説明できなくてどうするのよ!」という主張への違和感は、「アート」や「美術」という言葉の野放図な使われ方にも原因しているように思われる。確かに「説明できること」が前提となる作品も存在する。しかしそれは全ての作品ではない。
水野 亮(3) @drawinghell
3)「全ての」作者が自分の作品の制作意図を説明できて当然とする考え方は、「アート」を彼らが正嫡と考える一つの文脈へと統一しようとする働きなのだろう。ある意味それは異端審問なのである。しかし当然それは「正嫡/傍流」の概念の外側では通用しない
水野 亮(3) @drawinghell
4)もう一点、作者が自分の作品の制作意図を説明できる/できない理由は多様だが、作者に作品の制作意図の説明を強要する理由は一様である。つまりは見る側の「時間の節約」なのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
5)コンペに制作意図の提出を求められるのは、審査時間の節約以上の意味はない。無限に時間があるならば、一点一点時間をかけて作品を見れば済む話だからだ。グラントやプロジェクトの説明も同様である。
水野 亮(3) @drawinghell
6)だから作者に制作意図の説明を求める者は、審査員であり、クライアントであり、地元住民であり、総じて言えば作品と自発的な関わりを持たない者たちである。「全ての作品に必要な制作意図の説明」とはつまりはそうした者たちに向けるべきものなのであり、作品の受け手に向けたものではない。
水野 亮(3) @drawinghell
7)しかし「作者が自分の作品について語ること」はそうした処世的な「説明」のレベルに留まるだけのものではもちろんない。ときにはそれは「作品」の内部にまで入り込む。そして、ときとしてそれは当の「作品」によって裏切られる。
水野 亮(3) @drawinghell
8)そもそも「作品」にとって「作者」はどのような意味を持つのか? 作者の「制作意図」が作品に対して持つ意味とはなにか? そんなことを考えさせられたのは東京都写真美術館で開催されている畠山直哉の個展「ナチュラル・ストーリーズ」を見たからだ(以上前フリ。ここから本題)。
水野 亮(3) @drawinghell
9)今回の畠山の個展会場では、制作意図はおろかタイトルを示すキャプションすらもなく、すべての「言葉」が展示室から放逐されていた。もちろんそのことは畠山が「自分で自分の作品を説明できない」ことを意味しない。むしろ畠山は言葉に長けた写真家だと思う。
水野 亮(3) @drawinghell
10)プロジェクトを遂行するためには制作意図の説明は不可欠であろうし、さらに作品に肉薄したレベルにおいても畠山の言葉は考え抜かれたものであるように感じる。展示に「説明」を付けないこともその一環だろう。しかし展覧会の外側で我々は彼が「制作意図」を語った言葉に触れることができる。
水野 亮(3) @drawinghell
11)アサヒカメラの「写真家と震災」特集に寄せた畠山のテキスト≪「いい写真」とはなんだろう?≫は、震災後に「芸術家(あるいは表現者)」として発せられた言葉としてはもっとも(あるいは唯一)身に沁み、腑に落ちる言葉だった。今月号の芸術新潮のインタビューも興味深く読んだ。
水野 亮(3) @drawinghell
12)今回の個展の最大の焦点は津波を被害を受けた陸前高田の震災直後の写真が出品されていることだろう。畠山自身陸前高田の出身であり、今回の津波災害によって母親を亡くしている。上に挙げたテキストやインタビューは、それらのことを踏まえた上のものなのである。
水野 亮(3) @drawinghell
13)おそらく畠山はそれを撮ることに対しても、撮ったことに対しても、見せることに対しても、あるいはそれらを言葉にすることに対しても深い内省を重ねてきたのだろう。そのことは彼の言葉からひしひしと伝わってくる。そしてその彼の思いに、その「制作意図」に深く首肯する。
水野 亮(3) @drawinghell
14)ところが今回展示を見ての最大の驚きは、当の写真が畠山の言葉をマッタク裏切っていたということなのだ。畠山の言葉から想像していたものと、実際の写真を見ての印象はまるで異なっていた。
水野 亮(3) @drawinghell
15)実際に見た畠山の陸前高田の写真は、当たり前のような顔をして「畠山直哉」の写真だった。過去の作品とはアプローチが異なっていることや、破壊された町が写真家の故郷であり母を亡くした場所であるという「個人の物語」を、そこに感じることはなかった。
水野 亮(3) @drawinghell
16)つまりそこに自分が見たものは、災害の当事者としての畠山の「個人の物語」や津波災害の「明瞭な記録」というよりも、むしろ「写真家:畠山直哉」であり、過去の作品とも一貫した彼の「表現」だったのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
17)展覧会としてもこの陸前高田の写真があって、はじめて一つの展示として完成しているように感じた。これらの写真自身が畠山の一連の仕事に対する「読み直し」を可能にしている。むしろこれらの写真があって初めて自分は畠山の作品を深く理解できたように思えた。
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