で、通常その二元性というのは、いわゆる縁起とか相対性をもって解消されるんだけど、そもそもポストモダン、相対主義的な現代の世界では、その感覚、世界観に慣れ切って、本来縁起や相対性の持つインパクトは麻痺させられてしまっている。。
2011-11-11 04:08:27『本当はいいも悪いもないんだよ。人それぞれだしね。。』誰もがそういった感覚や直感を無意識に持っている。だから、いまさら縁起や相対性は、何かを超越する起爆剤になるには薬効が弱過ぎるのだ。 コーヒーばっか飲んでると、身体がカフェインに慣れて眠気覚ましにならなくなるみたいなもん。
2011-11-11 04:14:25んでね、今の俺たちにとっては、二元性を縁起や相対性で考えるよりも、決定不可能性として考える方が、アクチュアルというか、細かくは言わないが超越への起爆剤たりえるんじゃないかと。。
2011-11-11 04:17:20確かにウチの師匠は、アシュラムでクラスやったりコースでなんかやる時には本当にプレーンなヨーガしか出さないんだけど、その裏というかある段階から、シヴァだのリンガだのドゥエタだのがキーワードになる全く裏返った、プラナヴ云うところの『シヴァのヨーギー』が出てくる。
2011-11-11 04:25:39その二層目として教わったプラーナヤーマが、まさに二元性を縁起や相対性として見るというよりは『決定不可能性』のアナロジーと見るべきものだったわけ。
2011-11-11 04:29:55要するに、そこでもちいられる観想法が、縁起的なもの、すなわち『これがあることによってこっちもある』をイメージする - 知る為のものではないような気がずっとしてて、それが最近、そうじゃなくてこれは『決定不可能性』のアナロジーなんじゃないかって気がついたの。
2011-11-11 04:45:33もちろんハタが空や縁起の思想に根ざしている事を否定するわけじゃない。ただ、古代のインド人も、空や縁起の解釈のひとつとして、デリダが発見した事をすでに気づいてたんじゃなかろかと。で、現代の何が正しいのかわかんない、人それぞれの世界に於いては、
2011-11-11 04:51:34そっちからのアプローチがむしろ有効というか、結局は自己回帰に終わるしかないヨーガを社会に結びつけて、「どっちでもいい」「判断せずただ観察する」とかいう生きてんだか死んでんだかわかんねーボケナスにならずにキチンと判断と責任を負うて生きていく、そのひとつの道標になるんじゃないかと。。
2011-11-11 04:57:53人間は判断なしに生きてく事なんか出来ねーんだよ。いや、生きてく事全てが判断だと言っていい。そして、批判無しには判断は出来ない。ならば、耳障りのいい「判断しないで云々」なんて戯言よりも、何を判断して何をスルーすべきか?を問うべきなんじゃねえのか?綺麗な言葉聴いて思考停止するなよ。
2011-11-11 05:03:06途中の推論や説明をすっ飛ばしまくってるのでたぶんわかんないと思う。次回未定のダーキニー会でこの辺テーマにするかも。 もひとつ言っておくと『決定不可能性』というのはひとつのタームというか苦し紛れの言葉であって、字面のイメージ通りの意味として受け取ると誤解する。
2011-11-11 05:28:27相対主義っていうのは、ヨガの妙な無批判無判断主義と結合すると死人のようなフヌケを生み出すか、あるいは逆に、他の価値観・信念の存在を認めながらも自分の価値観・信念の純粋性潔癖性は保存されるので、必然的に全方位敵の、静動含めた闘争に帰結する。
2011-11-11 05:45:52決定不可能的な考え方は、自分のそういった信念をも脱構築してしまうので、闘争を起こすその起点を揺動させ、その揺動の中での判断責任を問うので、死人やインポにならずとも、闘争ではない共存の可能性が生まれる。
2011-11-11 05:52:20俺が「まあ、そりゃ色んなヨガあるよね」とか言いながらもこんだけケンカ売りまくってるのは、まさに相対主義だけど自分の潔癖性維持の為に不純物を介入させてくる外縁を滅ぼそうとしてるからじゃねーの。たぶん。
2011-11-11 05:59:374つ前の相対主義云々はもうちょっと考える必要がある。。削除しようかとも思ったけど、ツイートもまたヴィニヤーサ。引き返して取り消しなんてすべきではない。
2011-11-11 06:19:44